syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

知床峠 国後島を望む

2012-11-22 | 気まま旅
斜里岳
阿寒の山々と知床連山の中間にそびえる斜里岳は、日本百名山のひとつでもあり、登山も盛んな山。
晴れた日は、網走方面から清里へ向かう道すがら、斜里岳の美しい姿を見ることができます。独立峰的な山なので、見つけるのも簡単です。
清里に近づくにつれ徐々に大きくなるその姿に、誰もが感動を覚える美しい姿。



知床峠から国後を望む。
国後島、北海道知床半島の東にあり、千島列島の最南に位置する島。ロシア名はクナシル島、英語表記はKunashir。
島の名前の由来は、アイヌ語の「クンネ・シリ(黒い島)」または「キナ・シリ(草の島)」からであるが、どちらが本当の由来かははっきりとしていない。
この島に先住していたアイヌ人はアイヌ語で「クナシル」と呼んでおり、日本語名もロシア語名も国際標記もこれに起源を持つ。

かすかに国後が見える。


道東部海岸線と国後島の間の海峡を「根室海峡」と云う。北知床岬と国後島ルルイ岬の約70km・南、納沙布岬と国後ケムライ岬の約35km野付崎と
国後島南西端のノツエト崎の最狭部約15km野付水道は、陸続きであったという。冬期になるとホオーツク海から流氷が侵入し危険地域で、又ロシアの
哨戒艇による拿捕事件が絶え無い。根室半島は、遠洋漁業基地でもある。速く返還を。




ぶなの木、すでに葉が落ちて幹が骸骨のよう





廃屋 あちこちにこのような倒れた家がある。生活できなくなり家を捨てて移住していった。北海道には至る所に廃屋がある。


知床峠、岬  屈曲に富む岩礁の囲まれ海岸段丘が、大鷲・ウミウなど生殖している。


知床は続きます。


知床世界遺産クルーズ

2012-11-20 | 気まま旅
船からでなくては見られない景色。船からだと安全に観察することの出来る野生動物。オホーツク海より世界自然遺産「知床」を満喫出来る観光船に乗る。

知床観光船おーろら 総トン数:491T、全長:45m、全幅:10m、 最高速度:14.3ノット、定員:400名。

乗車して30分波高く風強し、運行は中止となりました。その位置から戻ることになり、運賃の返金もありました。たびたびあるそうです。

出発時から曇り空 

洞窟が沢山

空が怪しくなってきた


森繁久弥 作詞作曲
1, 知床(しれとこ)の岬に はまなすの咲くころ
思い出しておくれ 俺たちのことを
飲んで騒いで 丘にのぼれば
遥(はる)か国後(くなしり)に 白夜(びゃくや)は明ける


2, 旅の情(なさけ)か 酔うほどに さまよい
浜に出てみれば 月は照る波の上(え)
君を今宵こそ 抱きしめんと
岩かげに寄れば ピリカが笑う

映画のロケでお世話になった知床の人々にお礼がしたいと、わずか­一晩で森繁氏が作り上げた曲。コレだけの曲を即興で作った氏は天才。
本人も歌っているが、その後加藤登紀子さんが歌って大ヒットした。




甲板にに出て眺める観光客





滝が流れている崖

 


次回は知床峠。

オホーツク海と鮭の遡上

2012-11-18 | 気まま旅
オホーツク海・北海道は日本一の水産王国。 わが国は周りを海に囲まれ、魚を食べる民族ということもあり昔から漁業が盛んな国であるが、
その中でも北海道の漁業は突出している。
その水揚げにおいては常に全国の4分の1強を占め、魚種も多くほとんどが全国一のシェアを誇っている。
さらに日本海、太平洋、オホーツク海の3つの海に接っしていることも特色のひとつで、それぞれの海が持つ性質により同じ種類の魚でも漁期等が若干異なっている。
特にオホーツク海は1月中旬から2月いっぱい流氷に覆われることから、漁ができないというハンデがあるが、それゆえの優れた特色を数多く持つ、世界でも希な
“不思議の海”である。

日本のサケが生き残るためにはオホーツク海でどれだけ成長できるかである。オホーツク海エリアにおけるサケの最適水温は、2005 年現在で
は5月、6月に
北海道に接岸しており、7月にオホーツク海に広がります。このことから、現在は北海道のサケがオホーツク海に移動するのに最も適した時期であるということが分かった。
2050 年になると、このエリアの水温が上昇して、7月の水温が13 度以上になってしまい、2095 年になると、さらに水温が上昇すること。サケと温暖化は=であるようだ。







海を長い期間外遊してきた鮭は遡上する川の河口で4日ほど過ごし、海水で慣れた体を川の水に慣れるようにする。
ある時を期して一気に川を登っていく。その間にパートナーを見つけて、産卵をして死を迎えます。

世界遺産・知床へと続く国道334号線を横切って流れる遠音別川。近くの河口では、釣り客の姿も。川面に目をやると、黒い魚影がいくつも見え。どうやら鮭。






河口から200mほどのところには何故か堰が造られていてサケ・マスの遡上を阻んでいる。
堰を越えられず流れに押し戻されている。
堰を越えたものは美味しくないとか?。





途中から流れが2つに分かれていることから「双美の滝」とも呼ばれる。 滝の中ほどの高さまで階段で上がることができ、なかなか迫力がある。
また、滝の上にある展望台からはオホーツク海や知床連山を遠望することができ、特に流氷の季節は絶好、見渡す限りの白い海原が感動的。 「日本の滝100選」にも選ばれている。






次回はいよいよ知床旅情です。


一の酉 浅草鷲神社 

2012-11-17 | syu散歩
下根岸「お行の松」通りを抜けると、小野照神社、小野篁を主祭神とし、相殿に菅原道真を祀る。852年この地の住民が上野照崎の地に小野篁を奉斎したのが起源。
1624-43年、寛永寺の建立のため幕府より移転を命じられ、現社地に遷座した。江戸末期、回向院より菅原道真自刻と伝わる像を迎えて相殿に祀り、
江戸二十五天神の一つに数えられた。
樋口一葉の「たけくらべ」に「小野照さま」の名で出ている。

文化財の、 下谷富士塚 - 小野照崎神社の敷地内にある富士塚は、1828年建造。
重要有形民俗文化財。毎年富士山の開山に合わせて6月30日と7月1日に一般の登拝出来るという。


一の鳥居            神木                  境内
    

土地の人に小野輝様と尊崇されている小野照崎神社の3年に1度の例大祭本祭りの宵宮には大祭式が行われ、町会によっては夕刻、町内神輿が町内を渡御する。
日曜日には神幸祭が催され、宮惣の昭和初期の作品で、3尺8寸5分の立派な宮神輿が氏子町を巡幸する。
年番町役員の先導に続き、鉄杖、神官、猿田彦、お囃子のあと、本社御輿が続く。さらに御輿のあとに、宮司、白馬に乗った別当(馬係)と続く。
陰の年には氏子15カ町の町神輿の連合渡御が行われ威勢のいい声が町内に響きわたり、江戸情緒ゆたかな賑わいを見せる。

林屋正蔵・三平氏の襲名披露の行進は、この神社から浅草寺まで。


る組の碑               浅間神社                  富士塚                   
    

「酉の市」11月の酉の日に行われる、鷲神社の祭礼に立つ市で、最初が一の酉、二・三で三の酉のある歳は火災が多いという。
金銀を掻き集める事から熊手が縁起物となった。
江戸時代は、鷲神社お詣りと称して近い吉原へ直行、参拝帰りで大賑わいだったという。それでも売れない遊女を「酉の市の売れ残り」と云った。

大熊手


鷲神社は、日本武尊を祀り、武運長久、開運、商売繁盛の神として信仰。大鳥大社(大阪府堺市西区)が鷲神社の本社とされる。
鷲宮神社の祭神は、天穂日命、武夷鳥命、大己貴命。日本武尊が東征の際、この神社で戦勝を祈願したとされる。古くからこの神社を中心に「酉の日精進」
の信仰が広まり、12月の初酉の日には大酉祭が行われる。

鷲神社付近町内          神社入口           寄贈樽酒と提灯              
    

浅草の鷲大明神は妙見大菩薩とも呼ばれて、鷲に乗った「妙見菩薩」の姿として描かれ、長国寺境内の番神堂(鷲大明神社)に安置された。
11月の酉の日には鷲妙見大菩薩が開帳され、酉の市が盛大に行われるようになる。
鷲大明神社は「鷲宮」、長国寺は「酉の寺」とも呼ばれた。明治初年には神仏分離令により、長国寺と鷲神社とに引き分けられた。
現在の鷲神社の祭神は、天日鷲命と日本武尊。


本殿前の参拝客            1000円の熊手が飛ぶように売れていた     参拝者の行列
    


「酉の日」は、毎日に十干十二支を当てて定める日付け法で、「酉」に当たる日のこと。これは、12日おきに巡ってくる。ひと月は30日なので、日の巡り合わせにより、
11月の酉の日は2回の年と3回の年がある。
「三の酉」まである年は火事が多いとの俗説。そのため、三の酉がある年には平年にもまして、歳末にかけて、社会一般で火の用心が心がけられ、
熊手商の多くは縁起熊手に「火の用心」のシールを貼って売りだす。
三の酉は、およそ一年おきにあるため、さほど珍しいわけではない。

久し振りの鷲神社のお酉様であるが、昭和20年~30年頃のお酉さまを知っているだけに、規模が小さく寂しい。

思い出を一つ
昭和23年の一の酉で、5歳上のケチな兄貴と三ノ輪から夜店を歩いたことがあり、アルバイトで金が少々入ったので買ってやるから言ってみろと
びっくりする事を言い出した。皮の手袋を買ってもらった、3日後には、縫い目の糸がほぐれだし、皮が破れだした。
兄は、あの夜店に騙されたと怒っていたのを思い出す。

境内は隙間のない熊手の店舗         境内に三々手拍子の音
    

ここで下町散歩は終わり、北海道に戻ります。


寛永寺から入谷下根岸へ

2012-11-16 | syu散歩
11/8浅草のお酉さまに行くので、JR鶯谷駅を下車、この辺は、昔中根岸で、隣の日暮里駅寄りが上根岸、根岸小学校・豆腐屋笹の雪・駅周辺を中根岸、
上野寄りの入谷付近が下根岸と云った。江戸中期から文人墨客達が、田園の野趣と音無川の清流に恵まれ、この地を隠棲の場とした。
鶯が多く、駅名や初音町などで解るが梅屋敷であった。書道家中村不折旧宅や俳人歌人の正岡子規庵が居をかまえている。江戸でも人気の住宅街であった。

今日は、ここから浅草鷲神社のお酉さままで歩いてみる。まず、駅前の元三島神社を参拝。
「元三島神社」は、元寇の弘安の役の際に河野通有が伊予国大三島神社に必勝祈願した後、当地に分霊を勧請して創建したと伝えられる古神社旧金杉村
(根岸、東日暮里)の鎮守で、下谷七福神のひとつ寿老神が祀られている。

元三島神社鳥居         境内                    本殿前
    

樋口一葉の「たけくらべ」に登場する神社である、一葉は、駄菓子仕入の為、金杉を歩いていた様である。
また、句碑に、鳥居脇の境内にあり「木槿咲て 絵師の家問ふ 三嶋前」と刻まれて、子規の名があった。
通りに出ると「言問通り」の寛永寺坂下である。

本殿                                   子規の碑
    


「寛永寺坂」は、徳川家の墓地がある上野寛永寺霊園の言問通りを、 JRの鉄道線路に架かる寛永寺橋から南西に向かって緩やかに上っている坂。 
坂上の方に寛永寺があり、下るとJR鶯谷駅で、根岸町、入谷、浅草、隅田川、言問橋に通じる。大正10年頃、新設されたようである。

当初は鉄道線路を踏切で越えていたという。現在の跨線橋架設は、昭和3年、名称は寛永寺橋で、そこから坂の名をとったと考えられる。
寛永寺は徳川将軍の菩提寺だった。 坂上、南に現存と記載されている。JRの鉄道線路から見ると、高い崖で、可なりの急坂であったと思われる。

寛永寺の正門と本堂は、 旧本堂(根本中堂)など、東京国立博物館前の噴水池の辺りになる。
1868年の官軍と彰義隊との戦火で焼失し、 現在の本堂は、1876年 から12年にかけて、川越市の喜多院の本地堂が移築された。
1638年の建造といわれている。

私が坂で思い出すのが、子供の頃、姉のミシン糸を持ち出して、糸を全開一番凧で、大凧が豆粒になったこたがある。が、糸は手元から切れ、上野の山に消え、姉に見つかりさんざん怒られたのを思い出す。

下って右が駅で、左に豆腐料理の笹の雪、その裏手に正岡子規庵、林家三平宅で、前に根岸小学校がある。言問通りを進むと右に入谷の鬼子母神、
昭和35年位まであった居酒屋鍵屋と続いて行く、芥川龍之介、夏目漱石、谷崎潤一郎、樋口一葉、正岡子規とホトトギスメンバー、幸田露伴、永井荷風など文人は、
この坂を使い往来していたであろう。本郷の住民は、この坂を使い朝顔市、お酉さま、浅草寺お詣り、娯楽にと通る坂であった。

「闇坂」は、鶯谷駅から言問通り、入谷向かう坂を昔「闇坂」と呼んだ、昭和20年の終戦から上野から溢れた闇屋が坂の路上で商売しだてその名が付いた。
子供心に怖い所のイメージがある。現在の名は知らない。

寛永寺坂下                戦後闇坂と呼んだ坂下
  

「正岡子規」が、明治31年に、散策に出て(車上所見から)「田は半ば刈らずあり、刈りたるは皆田の緑に竹を組みてそれにかけたり。、、、
われには、この掛け稲がいと珍しく感ぜらる。」入谷田圃と云われ、千住にかけ黄金の波のうつ稲田の風景で、野川(音無川)であったようである。
明治27年から35年まで根岸に住んでいた。
根岸は「呉竹の根岸の里」で上野の山の麓に当たり、雀より鶯の方が多かったという閑静な地で、江戸の街全般に言えた。

下町のせんべい             柳通り                   和菓子屋
    

江戸時代は、酒井抱一御隠殿、徳川慶喜将軍別荘、文人、画家、書生、商家の別荘、吉原遊女(三千歳などの)別荘で、見渡す限りの平地であったようだ。

「真言宗智山派寺院の西蔵院」は、圓明山宝福寺と号し、1591年の書類に記載があることから江戸幕府開府以前の創建と考えられている。
江戸時代、当地周辺は時雨岡と呼ばれ、当寺にあった不動堂は時雨岡不動堂と称されていた他、根岸の三木といわれた「御行の松」が著名であったという。
荒川辺八十八ヶ所霊場2番札所。
「根岸小学校発祥の地碑」が、小学校は、1871年、学制公布より前に、金沢藩主前田氏等の寄付金を基に創立された歴史ある小学校。下町の学習院との異名も一部にある。
北区、荒川区等からの越境通学が多かった。 

根岸小学校発祥の地           西蔵院                 見事な柳並木 
    

「初代 御行の松」は、江戸時代から、根岸の大松と人々に親しまれ、「江戸名所図解」や安藤広重の錦絵にも描かれた名松であった。
この辺りが「時雨が岡」といったことから、時雨の松とも言われた。現在は3代目が西蔵院境外不動堂にある。
この初代の松は、大正15年に天然記念物の指定を受けた当時、高さ13.3m、幹の周囲4.09m、樹齢350年と推定された。
しかし、天災や環境の悪化から昭和3年に枯れ死。洞5年に伐採した。
この辺りは、「音無川」が流れ、正しくは石神井用水というが、流域の人は「音無川」と言ったいたという。
石神井用水は灌漑用水路で北区の飛鳥山北麓で、石神井川を分流させ現在の荒川.台東を流れ末は山谷堀に注いだ。
関東大震災後、音無川は暗渠化されて今はもう無い。一面田圃に、一本大松が聳えていたのであろう、想像であるが徳川吉宗、慶喜も上野の山か見たであろう。

お行の松               一代目の松の1部                本殿
    

「旧金杉、根岸芸者の置屋・柳通り」は、旧日光街道沿い(金杉通り)は戦災で焼け残り、土蔵造りの商家が残っている、
柳通りの裏路地には旧花街時代の建造物が所々にあり、根岸の柳通りから来る道はかつては、音無川が流れていた道。
柳通りには歩道の両側に柳が街路樹として植えられており、柳が密になるこの通りがかつて、根岸芸者の花街界隈であった。


    

「柳通りの浄土宗寺院・安楽寺」は、佛迎山往生院と号し、正運社覚誉意的が1627年下谷坂本に創建、1693年、現、下谷金杉へ移転したという。
根岸古寺めぐり3番札所となっている。

開運子育地蔵尊は、1590年 意的上人により建立された安楽時本堂に安置され「身かえり地蔵尊」として、庶民の信仰を弘く得てきた。
身かえりとは「うしとをふりむく」との意ですべての人々を救うという。

安楽寺                地蔵尊 
    

次回は浅草へ。