生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2010年8月1日 東海道散歩3(川崎宿)イベント主催(その3)

2010年08月04日 | 東海道徒歩の旅
(その2はこちら


■問屋場跡
公用で旅をする人達の便をはかるため人足と伝馬を常備し次の宿場まで提供した継立業務、幕府の荷物や手紙を次の宿場に送る飛脚業務の他、大名の出迎えや宿場業務の監督等を行った事務所。


跡地の説明板。


■高札場跡
幕府や領主が決めた法令などを書いた木の板を掲げておく場所。惣兵衛本陣の前にあった。


■惣兵衛本陣跡
問屋場に向かい合う形で建っていた本陣で、佐藤・田中本陣の間に位置することから「中の本陣」と呼ばれた。江戸後期に廃業した。


跡地の説明板。


■佐藤本陣跡
別名、惣左衛門本陣といわれ、門構え、玄関付、181坪の建物だった。幕末には14代将軍家茂が京に上る際に宿泊した。明治23年(1890)詩人・作詞家佐藤惣之助がこの家で生まれ、大正から戦前にかけて活躍し、「六甲おろし」「青い背広で」「人生劇場」など、今でも多くの人に親しまれている歌の作詞をした。


跡地の説明板。


■小土呂橋
東海道が新川掘という排水路を横断するところにかかっていた橋。昭和6年から8年(1931~1933)に埋め立てられ、橋の欄干の親柱と地名のみが残る。


橋の欄干の親柱。


昭和6年(1931)撮影の小土呂橋と新川堀の写真。


■教安寺
天文22年(1553)創建の浄土宗の寺院。


山門。


石灯籠。天保11年(1840)に富士講信者が京口に建てたもの。


梵鐘。川崎市内に残る江戸時代鋳造の3つの梵鐘のうちの一つ。


江戸中期に庶民から生き仏様と敬われた徳本上人の六字名号碑。


■京口跡
宿場の京都側の出入口にあたる所。切石を積んだ石垣があり、棒鼻、土居、見付とも呼ばれた。


跡地に説明板が設置されている。


関札の複製。関札は本陣に宿泊する大名、公家、幕府の役人等の名前が書かれた札で、宿場の出入り口や本陣に掲げられた。


■芭蕉ポケットパーク
後述の芭蕉句碑にちなみ、芭蕉をしのぶポケットパーク。弟子7名の句が刻まれた石盤がある。


芭蕉と弟子達のシルエットが描かれた半円柱のオブジェの裏側には自動販売機が設置されている。


■芭蕉句碑
「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」。元禄7年(1694)5月、芭蕉が故郷伊賀に向かう際に、見送りに来た弟子達は芭蕉と別れがたく六郷川を越え川崎宿の京口まで同道した。芭蕉達は川崎宿の京口付近の茶店で別れを惜しみながらこの句を詠んだ。同年秋に芭蕉は大阪で帰らぬ人となり、弟子達にとっては今生の別れとなった。句碑は文政13年(1830)に俳人一種が建立。




■無縁塚
昭和9年(1934)に地元と川崎市が建てた供養塔。八丁畷付近では江戸時代以降多くの人骨が発見され、震災、大火、洪水、飢饉や疫病などの災害で亡くなった身元不明の人々を川崎宿のはずれの当地に埋葬したのではないかといわれている。八丁畷の由来は川崎宿を抜けるとまっすぐな田んぼ道(畷)が八丁(約870メートル)続いていたことから。