この日は東海道散歩の6回目で、戸塚駅から藤沢駅まで東海道沿いを歩いた。参加者は管理人も含め10名で、男性5名、女性5名(参加者の皆様、ありがとうございました)。
天気に恵まれ、昼間は上着を脱いで歩いてちょうどよいくらいの暖かさだった。都心から離れたコースにもかかわらず遠方からの参加者が多くて驚いた。
今日歩いた東海道には大坂、遊行寺坂と大きな坂があり歩きがいがあった。大坂から西に進むと松並木の一部がところどころに残っていた。今後も残ってほしいものだ。
遊行寺は広い寺院だった。シンボルの巨大いちょうが見事。もう少したてばいちょうが黄色く色づいてきれいだろう。春はいろは坂や本堂周辺の桜に彩られて風情があることと思われる。
【コース】
戸塚駅→清源院→内田本陣跡→脇本陣跡→澤邊本陣跡→八坂神社→富塚八幡宮→上方見付跡→石塔群→大坂→「お軽勘平戸塚山中道行の場」の碑→原宿一里塚跡→浅間神社→影取池・鉄砲宿→松並木跡→一里塚跡→江戸方見付跡→諏訪神社→遊行寺→長生院→遊行寺橋→藤沢駅
(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)
■戸塚宿
日本橋から10里18町(41.2キロメートル)の距離にあった江戸から5番目の宿場。隣宿の保土ケ谷宿、藤沢宿より3年遅れて慶長9年(1604)に成立。前の宿場の保土ケ谷宿から2里9町(約8,8キロメートル)、次の宿場の藤沢宿へは2里(約7.9キロメートル)あった。戸塚宿は現在の戸塚駅を中心とした約2.2キロメートルの範囲にあった。
天保14年(1843)の記録によると人口2,906人、家数613軒、本陣2軒、 脇本陣3軒、旅籠75軒。
戸塚宿は慶長9年(1604)に成立。当時の一般的な旅の一日の行程は、夜が明けないうちに出発し10里(約40キロメートル)歩き、夕暮れには宿に入るというものだった。戸塚宿は当時の旅人にとってちょうどよい距離にあったため、江戸から出発した日に
宿泊する旅人で大変賑わった。さらに大山道と鎌倉往還との分岐点でもあり、大山への参拝客や鎌倉の古寺を訪れる人にも高い人気を誇っていた。
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戸塚駅構内にある、歌川広重の「東海道五十三次 戸塚」を描いた壁画。
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戸塚駅近くのマンホールのふた。江戸時代の戸塚宿を現代のマラソンランナーが駆け抜ける。
■清源院
江戸時代・元和6年(1620)、徳川家康の側室だった於万の方が、家康の菩提を弔うため、廃絶していた寺を再興。
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芭蕉句碑。「世の人の 見つけぬ花や 軒のくり」が刻まれる。
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心中句碑。「井にうかふ 番ひの果てや 秋の蝶」が刻まれる。戸塚宿で、飯盛女ヤマと若い町人清三郎がそろって井戸に身を投げる心中事件が起こった。文久3年(1863)、二人をしのぶ句碑が建てられた。
■内田本陣跡
本陣は勅使や、公家、大名、幕府の公用旅行者などが宿泊・休憩するための施設。戸塚宿には2軒あった。内田本陣は間口18間(32.8メートル)、奥行14間(25.5メートル)、畳数は152枚もあった。
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■脇本陣
本陣が混雑した際、本陣の代わりに利用された宿泊・休息施設。戸塚宿には3軒あった。
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■澤邊本陣跡
戸塚宿のもう一つの本陣。本陣創設時の当主の澤邊宗三は戸塚宿の開設に当たって幕府に強く働きかけた功労者。明治天皇の東下の折には行在所となった。
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■八坂神社
戸塚宿の鎮守の一つで「お天王さま」と呼ばれ親しまれる神社。
室町時代・元亀3年(1572)に牛頭天王社を勧請したのが始まりと言われる。毎年14日に行われる「お札まき」は、女装した10数人の男性が歌いながら町内を歩き、5色のお札をウチワであおって舞わせるという珍しい行事で、横浜市指定無形民俗文化財。
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■富塚八幡宮
戸塚の総鎮守で、ご祭神は誉田別命(ほむだわけのみこと)(応神天皇)と富属彦命(とつきひこのみこと)。平安時代・康平5年(1062)、前九年の役平定のため源頼義・義家父子が遠征の途中、この地で野営したところ、応神天皇の神託を得、戦に勝利したことに感謝し、延久4年(1072)に創建したとされる。
山頂の古墳は富属彦命の墳墓とされ、富塚(とみづか)と呼ばれており、「とつか」の地名の由来になったとも言われる。
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富塚。
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芭蕉句碑。江戸時代・嘉永2年(1849)地元の俳人達が建立。「鎌倉を 生きて出けむ 初松魚」が刻まれる。
■上方見付跡
宿場の京都(上方)側の出入口跡。現在は道の両側に1.5メートルほどの囲いが設けられ、昔と同じように京都に向かって左に松の木、右に楓の木が植えられている。
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松の木。
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楓の木。
天気に恵まれ、昼間は上着を脱いで歩いてちょうどよいくらいの暖かさだった。都心から離れたコースにもかかわらず遠方からの参加者が多くて驚いた。
今日歩いた東海道には大坂、遊行寺坂と大きな坂があり歩きがいがあった。大坂から西に進むと松並木の一部がところどころに残っていた。今後も残ってほしいものだ。
遊行寺は広い寺院だった。シンボルの巨大いちょうが見事。もう少したてばいちょうが黄色く色づいてきれいだろう。春はいろは坂や本堂周辺の桜に彩られて風情があることと思われる。
【コース】
戸塚駅→清源院→内田本陣跡→脇本陣跡→澤邊本陣跡→八坂神社→富塚八幡宮→上方見付跡→石塔群→大坂→「お軽勘平戸塚山中道行の場」の碑→原宿一里塚跡→浅間神社→影取池・鉄砲宿→松並木跡→一里塚跡→江戸方見付跡→諏訪神社→遊行寺→長生院→遊行寺橋→藤沢駅
(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)
■戸塚宿
日本橋から10里18町(41.2キロメートル)の距離にあった江戸から5番目の宿場。隣宿の保土ケ谷宿、藤沢宿より3年遅れて慶長9年(1604)に成立。前の宿場の保土ケ谷宿から2里9町(約8,8キロメートル)、次の宿場の藤沢宿へは2里(約7.9キロメートル)あった。戸塚宿は現在の戸塚駅を中心とした約2.2キロメートルの範囲にあった。
天保14年(1843)の記録によると人口2,906人、家数613軒、本陣2軒、 脇本陣3軒、旅籠75軒。
戸塚宿は慶長9年(1604)に成立。当時の一般的な旅の一日の行程は、夜が明けないうちに出発し10里(約40キロメートル)歩き、夕暮れには宿に入るというものだった。戸塚宿は当時の旅人にとってちょうどよい距離にあったため、江戸から出発した日に
宿泊する旅人で大変賑わった。さらに大山道と鎌倉往還との分岐点でもあり、大山への参拝客や鎌倉の古寺を訪れる人にも高い人気を誇っていた。
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戸塚駅構内にある、歌川広重の「東海道五十三次 戸塚」を描いた壁画。
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戸塚駅近くのマンホールのふた。江戸時代の戸塚宿を現代のマラソンランナーが駆け抜ける。
■清源院
江戸時代・元和6年(1620)、徳川家康の側室だった於万の方が、家康の菩提を弔うため、廃絶していた寺を再興。
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芭蕉句碑。「世の人の 見つけぬ花や 軒のくり」が刻まれる。
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心中句碑。「井にうかふ 番ひの果てや 秋の蝶」が刻まれる。戸塚宿で、飯盛女ヤマと若い町人清三郎がそろって井戸に身を投げる心中事件が起こった。文久3年(1863)、二人をしのぶ句碑が建てられた。
■内田本陣跡
本陣は勅使や、公家、大名、幕府の公用旅行者などが宿泊・休憩するための施設。戸塚宿には2軒あった。内田本陣は間口18間(32.8メートル)、奥行14間(25.5メートル)、畳数は152枚もあった。
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■脇本陣
本陣が混雑した際、本陣の代わりに利用された宿泊・休息施設。戸塚宿には3軒あった。
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■澤邊本陣跡
戸塚宿のもう一つの本陣。本陣創設時の当主の澤邊宗三は戸塚宿の開設に当たって幕府に強く働きかけた功労者。明治天皇の東下の折には行在所となった。
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■八坂神社
戸塚宿の鎮守の一つで「お天王さま」と呼ばれ親しまれる神社。
室町時代・元亀3年(1572)に牛頭天王社を勧請したのが始まりと言われる。毎年14日に行われる「お札まき」は、女装した10数人の男性が歌いながら町内を歩き、5色のお札をウチワであおって舞わせるという珍しい行事で、横浜市指定無形民俗文化財。
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■富塚八幡宮
戸塚の総鎮守で、ご祭神は誉田別命(ほむだわけのみこと)(応神天皇)と富属彦命(とつきひこのみこと)。平安時代・康平5年(1062)、前九年の役平定のため源頼義・義家父子が遠征の途中、この地で野営したところ、応神天皇の神託を得、戦に勝利したことに感謝し、延久4年(1072)に創建したとされる。
山頂の古墳は富属彦命の墳墓とされ、富塚(とみづか)と呼ばれており、「とつか」の地名の由来になったとも言われる。
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富塚。
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芭蕉句碑。江戸時代・嘉永2年(1849)地元の俳人達が建立。「鎌倉を 生きて出けむ 初松魚」が刻まれる。
■上方見付跡
宿場の京都(上方)側の出入口跡。現在は道の両側に1.5メートルほどの囲いが設けられ、昔と同じように京都に向かって左に松の木、右に楓の木が植えられている。
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松の木。
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楓の木。