(その2はこちら)
■北組問屋場跡
問屋場は公用旅行者の便をはかるため人足と伝馬を常備し次の宿場まで提供した継立業務、幕府の荷物や手紙を次の宿場に送る飛脚業務の他、大名の出迎えや宿場業務の監督等を行った事務所。大磯宿には北組、南組の2箇所の問屋場があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/a1/7722aac7bb3d07b81b82aecd695b32d4.jpg)
■小島本陣跡
本陣は勅使や、公家、大名、幕府の公用旅行者などが宿泊・休憩するための施設。大磯宿には3軒あった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/9f/69f2d4af6eb9db392dda9356457397cb.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/27/31f98f823cd5bc9021aa1a7807789a0d.jpg)
■地福寺
平安時代・承和4年(837)創建の真言宗の寺院。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/26/65984dbeb3ccbef6d1278b930de88717.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/ea/7ad69c6360ecda4309f911a46a5fef62.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/b1/6c38a5082e9d383bc09c10af4a60eaa4.jpg)
島崎藤村の墓。島崎藤村は明治、大正、昭和に渡って活躍した詩人・小説家で、「破戒」「夜明け前」など多くの作品を残した。昭和16年(1941)1月に藤村が左義長を見に大磯を訪れたところ温暖なこの地が非常に気に入り、昭和18年(1943)8月に71歳で亡くなるまでの間の2年余を大磯で過ごした。
■尾上本陣跡
大磯宿の3軒の本陣のうちの1軒。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/73/593b772e1db4697fa277382f50a17205.jpg)
■新島襄終焉の地
新島襄(天保14年(1843)~明治23年(1890))はキリスト教主義にもとづく自由教育を唱えた教育家・宗教家で、同志社大学の前身の同志社英学校を開設後、同志社大学設立の企画中に病のために療養先のこの地にあった百足屋旅館で47歳で死去した。石碑は昭和15年(1940)に新島襄の門下生が建立。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/41/53779a987bf672c6dddd99f0d769f448.jpg)
■南組問屋場跡
大磯宿のもう1箇所の問屋場。写真撮影するのを忘れた。
■湘南発祥之地の碑
鴫立庵の崇雪が建てた鴫立沢の標石の裏に「著盡湘南清絶地(清らかですがすがしく、このうえもない所、湘南とは何と素晴らしい所)」と刻んだことが湘南の名称発祥とされる。崇雪にとって大磯の「鴫立沢」付近の風景は中国湘江の南方一帯の「湘南」の
美しい景色に似てなんとも美しい場所であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/4c/18beb195e3832d8688e6718bbb1d9850.jpg)
■鴫立庵
京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並ぶ日本三大俳諧道場の一つ。
江戸時代・寛文4年(1664)崇雪が西行の「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮」の名歌にちなみ、昔の沢らしい面影を残す景色の良い場所に鴫立沢の標石を立て、石仏の五智如来像を運んで草庵を結んだのが始まりで、元禄8年(1695)俳諧師の大淀三千風が入庵し、第1世庵主となった。現庵主は第22世。西行、芭蕉を初めとする数多くの句碑が残る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/86/fd8865a371b9f6341c443dcfa3d131a2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/89/30a660d85dcc2d1804c795b54c832c85.jpg)
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鴫立沢の標石。レプリカが残る。本物は塩害による磨滅を防ぐため大磯町郷土資料館で保存。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/c7/01f7401f19687e67846b4efa3c877a81.jpg)
円位堂。等身大の西行の坐像が安置される。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/5e/5dc75cd071cb70c19e4e3eb898b3bdae.jpg)
法虎堂。有髪僧体の虎御前19歳の姿を写した木像が安置される。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/dd/e9f613a694afeaafe4c751ad8f77ee92.jpg)
観音堂。中国の革命家、孫文の持仏が安置される。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/9a/947facf5d254f05e0c921988fc3e9317.jpg)
五智如来像。釈迦・阿弥陀・大日・薬師・宝生の五仏。当初はこれを本尊として西行寺を作るのが目的だったといわれる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/7c/628de18411931b5696043404f77285b9.jpg)
屋根の下で眠っている猫。
■北組問屋場跡
問屋場は公用旅行者の便をはかるため人足と伝馬を常備し次の宿場まで提供した継立業務、幕府の荷物や手紙を次の宿場に送る飛脚業務の他、大名の出迎えや宿場業務の監督等を行った事務所。大磯宿には北組、南組の2箇所の問屋場があった。
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■小島本陣跡
本陣は勅使や、公家、大名、幕府の公用旅行者などが宿泊・休憩するための施設。大磯宿には3軒あった。
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■地福寺
平安時代・承和4年(837)創建の真言宗の寺院。
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島崎藤村の墓。島崎藤村は明治、大正、昭和に渡って活躍した詩人・小説家で、「破戒」「夜明け前」など多くの作品を残した。昭和16年(1941)1月に藤村が左義長を見に大磯を訪れたところ温暖なこの地が非常に気に入り、昭和18年(1943)8月に71歳で亡くなるまでの間の2年余を大磯で過ごした。
■尾上本陣跡
大磯宿の3軒の本陣のうちの1軒。
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■新島襄終焉の地
新島襄(天保14年(1843)~明治23年(1890))はキリスト教主義にもとづく自由教育を唱えた教育家・宗教家で、同志社大学の前身の同志社英学校を開設後、同志社大学設立の企画中に病のために療養先のこの地にあった百足屋旅館で47歳で死去した。石碑は昭和15年(1940)に新島襄の門下生が建立。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/41/53779a987bf672c6dddd99f0d769f448.jpg)
■南組問屋場跡
大磯宿のもう1箇所の問屋場。写真撮影するのを忘れた。
■湘南発祥之地の碑
鴫立庵の崇雪が建てた鴫立沢の標石の裏に「著盡湘南清絶地(清らかですがすがしく、このうえもない所、湘南とは何と素晴らしい所)」と刻んだことが湘南の名称発祥とされる。崇雪にとって大磯の「鴫立沢」付近の風景は中国湘江の南方一帯の「湘南」の
美しい景色に似てなんとも美しい場所であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/4c/18beb195e3832d8688e6718bbb1d9850.jpg)
■鴫立庵
京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並ぶ日本三大俳諧道場の一つ。
江戸時代・寛文4年(1664)崇雪が西行の「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮」の名歌にちなみ、昔の沢らしい面影を残す景色の良い場所に鴫立沢の標石を立て、石仏の五智如来像を運んで草庵を結んだのが始まりで、元禄8年(1695)俳諧師の大淀三千風が入庵し、第1世庵主となった。現庵主は第22世。西行、芭蕉を初めとする数多くの句碑が残る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/86/fd8865a371b9f6341c443dcfa3d131a2.jpg)
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鴫立沢の標石。レプリカが残る。本物は塩害による磨滅を防ぐため大磯町郷土資料館で保存。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/c7/01f7401f19687e67846b4efa3c877a81.jpg)
円位堂。等身大の西行の坐像が安置される。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/5e/5dc75cd071cb70c19e4e3eb898b3bdae.jpg)
法虎堂。有髪僧体の虎御前19歳の姿を写した木像が安置される。
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観音堂。中国の革命家、孫文の持仏が安置される。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/9a/947facf5d254f05e0c921988fc3e9317.jpg)
五智如来像。釈迦・阿弥陀・大日・薬師・宝生の五仏。当初はこれを本尊として西行寺を作るのが目的だったといわれる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/7c/628de18411931b5696043404f77285b9.jpg)
屋根の下で眠っている猫。