京都の紀伊国屋書店で『お順』を買ったのは帯に書かれた“半藤一利氏推薦・幕末随一の元気な女性、あのお順を主人公にした小説にようやく出合いました。・・・自らの意志を貫き、愛に生きたおきゃんな江戸娘お順の波瀾の生涯”という文である。分厚い本でもあり相性がよいかどうか定かではないので上巻、下巻をまとめて買うことは控えた。
読み始めると帯にいつわりなし。とても面白く一気に読んでしまった。下巻を求めて枚方、交野の主だった書店に行ってみたが、7軒とも置かれていなかった。やたらと“江”が目についた。結局、4日間空いて昨日下巻を手にしたのだがその間久しぶりに“読みたくてウズウズする”という感覚を味わった。
上巻の中で気に入ったセリフをいくつか。
順が兄の麟太郎の家を訪れた時、生活の糧を稼ぐためと自分の将来のため『ヅーフ・ハルマ』を写すことを昼夜分かたず没頭している兄のやつれた様子に驚き、健康を気づかう妹に対して麟太郎の言った言葉。
「なれば、ひとつ言うておく。ここぞというときにやらねば運を逃す。お順坊にもそういう大事なときが必ず巡ってくる。逃すな。つかみとれ。とことんやるんだ」そしてにやりと笑って「おれはおかしな性分での、追い詰められればられるほど闘志がわいてくる。ここまで食い詰めると、柱を齧ってでも生き延びてやるぞ、とかえって愉快になってくるのサ」
『ヅーフ・ハルマ』は和蘭人フランソワ・ハルマが編纂した蘭仏辞書を、和蘭カピタンのヘンデレキ・ヅーフが蘭和辞書に直したもははので、長崎の通詞11名が23年かかって完成した58巻三千貢の大作である。この『御用紅毛辞典』は長崎の通詞の部屋と江戸の天文台、幕府の奥医師・桂川甫周法眼のもとにあるきりで、印刷は禁止されていた。手で写すしかないのである。麟太郎は知人の旗本、上田実に頼み込み、一部を借り出してもらって上田家へ通って写している。江戸に2冊しかない貴重な原本なので昼間は閲覧できない。夜間に写して、写したものを持ち帰り、昼間は自宅でもう一部、写していた。売ってお金にするものと所蔵して活用するためである。この不眠不休の生活を1年余り続けなければいけないわけだから順が心配するのも無理はない。
いろいろな所で、写経、写本、版木などを見る機会が増えたが、見るたびに“知る”ことへのあくなき努力や工夫に心が打たれる。
天保10年、老中水野忠邦が主導した天保改革で、幕府を批判した科で捕縛された江戸屈指の蘭方医・高野長英。赦免まで待てず脱獄して追われる身となった。追っ手が迫って来たことを感じた夜、幕臣ではあるが蘭学に熱中している麟太郎の家に匿って欲しいと訪ねてきた。義を貫いて断った兄に、高野長英死すという噂を聞いた順が「なぜ助けてやらなかったのか」とにらんだ時の麟太郎の言葉。
「どうして・・・これが先生の宿命(さだめ)だった。それだけサ。今さら、ああだこうだ言ってもはじまらぬ。」
「先生はとびきり優れた蘭医だった。だが、ひとつだけ足りないものがあった。」わかるかと訊かれて首を横に振った順に
「教えてやる。よう聞いておけ。がまんだ。上手くいかないことを、上手くゆくようにするには、忍耐しかない。だれになんと言われようと、ただ、じっとがまんするのサ」
江戸屈指の剣客であった20歳余り年上の島田虎之助を幼少の時から慕っていた。16歳になって虎之助に思いを告げ、同じ思いであることを確認したが、虎之助は病にかかっていて、その療養のため1年間の猶予を告げた。1年後、正式に勝家に申し入れ、祝言をあげることになったが、間近に控えたある日、虎之助は亡くなった。通夜の客が一段落した後、虎之助の亡骸の前に坐った順に、虎之助の娘、菊と順のかわしたことば
「父は、知っていたのですよ」菊はぽつりと言った。
「知っていたって?」
「次に発作が起きたら助からぬと・・・。長くは生きられぬと悟っていたのでしょう」
「でも、わたしと夫婦になると・・・・」
「はじめは、お順さまを悲しませるからと、縁談を取りやめるつもりでいたのです。でもお順さまの兄さまは、同じ悲しむなら、たとえ短くとも幸せな日月があったほうがよい、妹もそれを望んでいるはずだと仰せられたそうです」
「兄が、さようなことを・・・」 「人は皆、いつ死ぬかわからぬ。誰も同じだ。だったら死ぬことより生きることを考えてはどうか、とも仰せられたそうで・・・。それで父も心を決めたそうです。」
麟太郎とお順の父である小吉が著した『夢酔独言』の中の一節に“したい事をして死ぬ覚悟”という言葉があったことを順は思い出す。ろくでもないことばかりしてきたと自嘲していた父だが、したくてしなかった後悔より、した上でしくじったり悲しい思いをしたほうがましだと思っていたにちがいないと話す。それを受けて菊は
「お順さまの兄さまのおかげで、父は心安らかな最期を迎えられました。長くないとわかっていながら、最後まで明日のことを思うて平穏な日々を過ごせたのですもの」
昨夜から下巻を読み始めている。時代は幕末へと動いていく。その先に待ち受けているものは?さて?
読み始めると帯にいつわりなし。とても面白く一気に読んでしまった。下巻を求めて枚方、交野の主だった書店に行ってみたが、7軒とも置かれていなかった。やたらと“江”が目についた。結局、4日間空いて昨日下巻を手にしたのだがその間久しぶりに“読みたくてウズウズする”という感覚を味わった。
上巻の中で気に入ったセリフをいくつか。
順が兄の麟太郎の家を訪れた時、生活の糧を稼ぐためと自分の将来のため『ヅーフ・ハルマ』を写すことを昼夜分かたず没頭している兄のやつれた様子に驚き、健康を気づかう妹に対して麟太郎の言った言葉。
「なれば、ひとつ言うておく。ここぞというときにやらねば運を逃す。お順坊にもそういう大事なときが必ず巡ってくる。逃すな。つかみとれ。とことんやるんだ」そしてにやりと笑って「おれはおかしな性分での、追い詰められればられるほど闘志がわいてくる。ここまで食い詰めると、柱を齧ってでも生き延びてやるぞ、とかえって愉快になってくるのサ」
『ヅーフ・ハルマ』は和蘭人フランソワ・ハルマが編纂した蘭仏辞書を、和蘭カピタンのヘンデレキ・ヅーフが蘭和辞書に直したもははので、長崎の通詞11名が23年かかって完成した58巻三千貢の大作である。この『御用紅毛辞典』は長崎の通詞の部屋と江戸の天文台、幕府の奥医師・桂川甫周法眼のもとにあるきりで、印刷は禁止されていた。手で写すしかないのである。麟太郎は知人の旗本、上田実に頼み込み、一部を借り出してもらって上田家へ通って写している。江戸に2冊しかない貴重な原本なので昼間は閲覧できない。夜間に写して、写したものを持ち帰り、昼間は自宅でもう一部、写していた。売ってお金にするものと所蔵して活用するためである。この不眠不休の生活を1年余り続けなければいけないわけだから順が心配するのも無理はない。
いろいろな所で、写経、写本、版木などを見る機会が増えたが、見るたびに“知る”ことへのあくなき努力や工夫に心が打たれる。
天保10年、老中水野忠邦が主導した天保改革で、幕府を批判した科で捕縛された江戸屈指の蘭方医・高野長英。赦免まで待てず脱獄して追われる身となった。追っ手が迫って来たことを感じた夜、幕臣ではあるが蘭学に熱中している麟太郎の家に匿って欲しいと訪ねてきた。義を貫いて断った兄に、高野長英死すという噂を聞いた順が「なぜ助けてやらなかったのか」とにらんだ時の麟太郎の言葉。
「どうして・・・これが先生の宿命(さだめ)だった。それだけサ。今さら、ああだこうだ言ってもはじまらぬ。」
「先生はとびきり優れた蘭医だった。だが、ひとつだけ足りないものがあった。」わかるかと訊かれて首を横に振った順に
「教えてやる。よう聞いておけ。がまんだ。上手くいかないことを、上手くゆくようにするには、忍耐しかない。だれになんと言われようと、ただ、じっとがまんするのサ」
江戸屈指の剣客であった20歳余り年上の島田虎之助を幼少の時から慕っていた。16歳になって虎之助に思いを告げ、同じ思いであることを確認したが、虎之助は病にかかっていて、その療養のため1年間の猶予を告げた。1年後、正式に勝家に申し入れ、祝言をあげることになったが、間近に控えたある日、虎之助は亡くなった。通夜の客が一段落した後、虎之助の亡骸の前に坐った順に、虎之助の娘、菊と順のかわしたことば
「父は、知っていたのですよ」菊はぽつりと言った。
「知っていたって?」
「次に発作が起きたら助からぬと・・・。長くは生きられぬと悟っていたのでしょう」
「でも、わたしと夫婦になると・・・・」
「はじめは、お順さまを悲しませるからと、縁談を取りやめるつもりでいたのです。でもお順さまの兄さまは、同じ悲しむなら、たとえ短くとも幸せな日月があったほうがよい、妹もそれを望んでいるはずだと仰せられたそうです」
「兄が、さようなことを・・・」 「人は皆、いつ死ぬかわからぬ。誰も同じだ。だったら死ぬことより生きることを考えてはどうか、とも仰せられたそうで・・・。それで父も心を決めたそうです。」
麟太郎とお順の父である小吉が著した『夢酔独言』の中の一節に“したい事をして死ぬ覚悟”という言葉があったことを順は思い出す。ろくでもないことばかりしてきたと自嘲していた父だが、したくてしなかった後悔より、した上でしくじったり悲しい思いをしたほうがましだと思っていたにちがいないと話す。それを受けて菊は
「お順さまの兄さまのおかげで、父は心安らかな最期を迎えられました。長くないとわかっていながら、最後まで明日のことを思うて平穏な日々を過ごせたのですもの」
昨夜から下巻を読み始めている。時代は幕末へと動いていく。その先に待ち受けているものは?さて?