素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

蒸し暑くなってくると出始める無視できない虫

2013年05月21日 | 日記
 先日の雨のあとめっきり暑くなってきた。南からの湿った空気も入り空気がなんとなく重く感じる。気の早い紫陽花が花をつけ始めた。ピラカンサの白い花が今年はよく咲いている
 この様子だと秋の終わりには赤い実をたくさんつけることだろうと楽しみである。しかし、この時期、よいことばかりではない。ピラカンサスにだけ大量の毛虫がつくのである。その数は半端ではない。
 毎朝、水をやる時に仕事が増えた。古い割り箸で毛虫をとっては踏みつぶすのである。殺生はあまり気持ちの良いものではない。そこにナメクジも加わることがある。ナメクジはピラカンサよりもムクゲの木に多くいる。夕方はさらに蚊が出てくるようになった。蚊の数も日増しに増えている。この3つがそろうと初夏を実感する。

 30数年前になるが、新聞で野坂昭如さんが「ゴキブリを殺すのに自分は殺虫剤でシューとやったり、薬を置いたりしない。」と書いていた。要は自らの手で殺すべきだと言うのだ。ハエたたきでたたいた時にゴキブリの断末魔のもがきが手に残る。それが大事なのだという主旨だった。ベトナム戦争でのアメリカの空爆、枯れ葉作戦などの記憶が生々しかった時、安易に薬にたよっていたことへの思い返しがあった。そのことを母方の祖母に話すと「わたしなんかゴキブリは手づかみで捕まえる」と言った。半信半疑の顔をしているとちょうどいいタイミングでゴキブリが現れた。ティッシュペーパー1枚を手にした祖母、気配もなく近づいたと思ったら居合抜きのような手の動きで鷲掴み。恐れ入りの進であった。

 そんなこんなを思いだしながら朝夕、3本のピラカンサスの木の枝や葉に忍者のごとく擬態を駆使してひそむ毛虫を取る毎日となった。30匹でやめることにしている。100%を目指したらかぎりない泥沼に陥ること間違いなし。夕方などは毛虫の数だけ蚊も私の周りをブンブンと飛び回ってくるのでさっさとノルマを達成して退散することにしている。

 しばらくは続きそう。雨が降ってくれればなと勝手な希望を抱いている。
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私と地図

2013年05月20日 | 日記
 中学生の頃は友人と地図帳でわかりにくい場所をお互いに問題で出し探しっこする遊びが流行った。それにプラス面白い読みや意味があればみんなで嬉しがったもにだ。南米のチチカカ湖なんかがそうだったと記憶にある。高1の地理のT先生は速射砲みたいな授業展開であった。地図上の位置を「12ページ・Dの2やや左、同じくFの8右上・・・・・」と矢継ぎ早に言っていくのを必死で追いかけたものだ。まさに立て板に水であった。よく物まねをしたものだ。

 本格的に地形図と向かい合ったのが大学受験の時である。千葉大学園芸学部造園学科を目指したのだが、そこの過去問を調べると地理では必ず地形図を読み解く問題が出題されていた。本屋で地図関係の本をあさって読んだ。二度チャレンジしたがあえなく敗退。それでも高2の秋すぎから高3、浪人時代にかけて地図に取り組んだおかげで受験のためだけではなく地図そのものの面白さも感じることができた。

 その後も地図とのおつきあいは続いた。大学時代に出会った堀淳一さんの『地図の楽しみ』(河出書房新社)は興味深い内容であった。もう少し早く出会っていれば受験の役に立ったのにと思った。

 ちまちまと今ある地図を眺めていた私にコペルニクス的転回を与えてくれたのが高坂正堯さんの『世界地図の中で考える』(新潮選書)であった。国際政治学者の高坂さんの旅行記である。そこで「地理的視野」ということを教えられた。オーストラリアの南東端にあるタスマニア島に行った目的の1つをこう書いている。

 私は南半球から地球を見上げたかったのである。われわれは北半球に住んでいる。だから、われわれが地球と地球上にくり拡げられる人間の営みを見る目は、北半球からの見方である。南の端から地球のできごとを見るとどうなるだろうか、私はそれを経験してみたかった。もっとも、こうした私の考えを笑う人があるかも知れない。われわれが見る地図は地球の客観的な地図であり、北から見た地図とか、南から見た地図などは存在しない、どこへ行っても地球儀は同じ型をしている。
 たしかに、科学的に見れば地図は何通りもは存在しないであろう。海と陸の配分、川の流れ、山の連なり、砂漠の存在、それらは見る視点によって変りはしない。日本のなかで使われている地球儀とオーストラリアのそれはたしかに同じである。しかし、この科学的な地図ほどわれわれに誤解を与えるものは少ないのである。なぜなら地球の形そのものはほとんど変らなくても、それが人間に対して持つ意味は時代によって、また見る人の目によって異なる。


 この本に感化されて地球儀を買って、上からや下からやと眺め、今まで見てきた太平洋が真ん中を占め、右にアメリカ大陸、左にヨーロッパという地図しかなかった私の頭に別の見方が生まれた。
うぶす
 それ以後も地図やそれに関連する本とは燃えるような恋ではないが炭火のような付き合い方をしてきた。最近地図関連の面白い本とひょっこり出会った。中沢新一さんの「アースダイバー」「大阪アースダイバー」まだパラパラと見ているだけだがそれでも嬉しくなってくるものである。もう1つが昭文社から出た「なるほど知図帳 日本2013」である。一番欲しかったのは付録の『視点を変えた日本地図』であった。《大陸側から見た”逆さ”日本地図》《海水を抜いて地表を露出させた日本凹凸地形MAP》の2つがあり、子どものようにしげしげと眺めては喜んでいるのである。

 

 
 
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『第3回雅法会・作品展』を見に法然院へ

2013年05月19日 | 日記
 光明寺住職の雅法くんの呼びかけで『好きです・・・~それぞれの夢風景~』をテーマに彼を含め10人の方々の作品展の案内をいただいていた。創作表具、縮緬細工、写真、着物リメイク、佛画、イラスト、パステル画、絵手紙などジャンルはさまざまである。今年で3回目になる。

 今日、京都駅まで車で送る用があったのでついでに立ち寄らせてもらった。予報通り昼過ぎから雨が降りだした。雨の法然院は格別である。雨で洗われた新緑のあざやかな輝きと雨に濡れた苔や石碑、茅葺の山門との対比が何とも言えない趣がある。
  法然院講堂といっても小ギャラリーという感じでこじんまりとしている。
  入口で出迎えてくれる2枚の佛画、いかにも雅法くんらしい。
  

 車中で東大阪市で定年退職後、再雇用で小学校に勤務しているIさんの話を聞くことができた。一番の悩みは講師不足だという。「5月14日になってやっと全職員がそろったんですよ」と嘆いていた。4月のスタート時の欠員は当たり前。学校長ですら誰がいつ赴任できるかわからないので欠員を埋めるためにIさんは最初「6年に行ってくれ」と要請された。3日後に5年に変更となる。5年の生徒に「一緒に1年間頑張ろうね。よろしく」と挨拶をした翌日、講師の関係で4年生となった。学校側の事情を知らない子供たちは4年生の面倒を見ているIさんを見てキョトンとしていたという。

 それでも、5月14日であろうが全職員揃うことができるということはましだという。近頃は欠員のまま1年間終わるところも珍しくないという。教科という枠のある中学が深刻で、特に理数が不足しているという。隣の中学では理科の講師が見つからず、1年生の理科の授業ができない事態に陥ったとか、80歳の数学の講師に頼らざるを得ないところもあった。テストづくりや採点など周りの人たちはフォローするのに大わらわだという。「だって私の親と同じですよ」とため息。校長であった大ベテランが職場にいるところでは仕事がたのみにくく若い管理職のストレスになっているとぼやかれたこともある。職員の数は多いのになぜか中身は空洞化しているという。

 61歳のIさん「私の職場の教員では、私の次は何歳の人になると思いますか?」とクイズを出してきた。答は45歳。「16年のギャップですよ。しかも40代は全部で3人。」40代の人たちは教員採用の超氷河期にあたっているから総数も少ないが、年齢バランスの不均衡もさまざまな局面で支障がでるという。学校が違えば職員構成もがらりと違い、学校間不均衡が顕著になってきたという。

 あれやこれやと現場の悲喜劇の話に渋滞も気にならず運転できた。私の近辺でも似たような嘆きはよく耳にする。

 最後にIさんは「とにかく講師でちまちま穴埋めすることをやめて、正規の採用者を増やし、それぞれの学校にど~んと教員を多めに配属し、後は学校の事情で知恵を寄せ合ってうまく運営していって下さいと現場にまかせる太っ腹な教育行政をしてほしいね。まあ無理だけど」と笑いながら車を降りて行った。
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『木の上の軍隊』(原案:井上ひさし 作:蓬莱竜太 演出:栗山民也)をシアタードラマシティで

2013年05月18日 | 日記
 北新地から茶屋町にあるシアタードラマシティまで行くのに、オープン間もない今一番ホットな場所グランフロント大阪を通って行くことにした。話に違わず混雑していた。行ってきた人が「立体迷路みたいで迷ってしまう」と話していたのもうなづける。ごく一部しか見ていないが入っている店も私には無縁と感じるものばかり、「見ただけで、買い物は阪神百貨店でしてきたんよ。やっぱりおちつくね。」と言った近所のおくさんの気持ちがよくわかる。屋上庭園やテラス、並木道など緑豊かな空間を都会の真ん中にをコンセプトに設計されただけのことはあった。シニア世代の憩いの場になるだろうなという予感はした。大阪ステーションシティができてから、雨の日はそこを中心にウォーキングをかねて地下街ブラブラ歩きをするシニアがだんだん増えてきたという話を聞いた。さらにグランフロント大阪が加わればバリエーションが豊富になるかな?

 井上さんは1990年と2010年の二回、上演を試みながら実現できず他界された。たくさんの資料と1枚のメモ書き、近しい人へ語った沖縄への思いなどから井上さんの最期まで書こうとしていたものを引き継ぎ、新たなものを産み出す作業は難しいものであったと思う。先にNHKで娘さんの動きを中心に特集があった。さまざまな人々の思いが結晶したこのような作品は二度とない奇跡と言ってもいいものである。

 いつものごとくパンフレットを読みながら余韻を楽しんでいる。「井上ひさし生誕77フェスティバル2012」のおかげで大阪でも井上作品の上演が数多くあり観る機会が増えた。徐々にそのすごさを感じているところである。

 
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映画「父と暮せば」上映会に香里園へ

2013年05月17日 | 日記
 寝屋川市立男女共同参画推進センター・ふらっとねやがわで13時半から上映会があるとのえ案内が新聞にあったので申し込んだ。先着50名無料であった。ふらっとねやがわは京阪香里園駅より徒歩2分となっていたので行けばわかるだろうと思っていた。行ってびっくり香里園駅の山手側がすっかり変わっていた。思えば長いこと香里園駅に降りたことがなかった。狭くてごちゃごちゃとした感じであったが、バスの発着場が関西医大のほうに移動していて広い道ができていた。

 もともと香里園付近で暮らし始めたので懐かしい思い出がいっぱいある場所である。浦島気分になった。ふらっとねやがわはJA北河内のビルの4F、確か中華料理店の頤和園があったところであった。入居しているものは違うが、ビルは昔のままのものなぜか嬉しくなった。

  『父と暮せば』(ちちとくらせば)は、井上ひさしによる舞台作品で原爆投下後の広島を舞台にした二人芝居である。

 こまつ座第三十四回公演として1994年9月に初演(鵜山仁演出)されている。それを2004年に黒木和雄監督が映画化したのである 。舞台は見たことないが、映画といってもほとんど舞台を見ているのと同じ感覚であった。舞台では出せない映像部分も最小限に抑えてあったし、父の原田芳雄と娘の宮沢りえの二人芝居で進むが、娘の未来の鍵を持つ木村という青年をほとんどセリフなしで登場させているぐらいであった。

 広島への原爆投下というテーマを井上さんはこういうふうに料理していたんだと静かな感動を覚えた。黒木和雄監督が戦争レクイエム三部作の最後の1つとして映画化したのもうなづける。黒木さんの乾いた表現が井上さんの持ち味を殺すことなく丸ごと抱え込めたような気がした。

 他の2作品「TOMORROW明日」と「美しい夏キリシマ」は見る機会にめぐまれたので今日でやっと私にとっても三部作完結の日であった。特に、長崎での原爆投下を題材にした前者は衝撃を受けた作品であった。

 偶然ではあるが、明日、井上ひさしさんが最期に書こうとした幻の作品「木の上の軍隊」をシアター・ドラマシティで観劇することになっている。巡り合わせの不思議さを感じる。

 生死の分かれ目は神様のいたずらとしか思えない理不尽さに満ちている。明日という未来を突然奪われた者の無念さ同様に生き残った者の心の傷の深さも計り知れないものがある。東日本大震災を知らずに他界された井上さんだが、宮沢りえと原田芳雄の繰り出すセリフは舞台を広島から東北に移しても通じるものがあると思った。その言葉の持つ普遍性に井上さんのすごさを再認識した。

 幻の作品の舞台も楽しみである。
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