素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

枚方市民の森「カトレア展」

2024年01月21日 | 日記
 20日(土)、21日(日)と枚方市民の森で男山蘭友会による「カトレア展」があった。連日、暗い話題が多く心が殺風景になっていると実感する。華やかなカトレアでも見たら少しは潤うかと所用のついでに立ち寄った。

 
 カトレアはランの仲間で、原産地は中南米で、アンデス山脈付近の標高100mから1,500mあたりの森の木々に着生しながら自生していて多くの種は寒さに弱く、暑さには比較的強い性質があるとのこと。現在はさまざまな品種改良が行われ、大きさや花色も無数にあり、開花期も品種によって異なり、春咲き(3~4月)、初夏咲き(5~7月)、秋咲き(9~11月)、冬咲き(12~2月)と1年中楽しめる。

 カトレアには花色によって「優美な貴婦人」「成熟した大人の魅力」「魔力」「魅惑的」などという花言葉がある。たとえば紫色のカトレアであれば「優美な女性」「美しい」。白は「魅力的」「魔力」。黄色は「魅力」「気品」。ピンクは「成熟した大人の魅力」となっている。「見たままやな」としばし別世界を楽しんだ。
    
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少し違和感が残ったニュース~その3~

2024年01月20日 | 日記
 奈良教育大学付属小学校で、学習指導要領を逸脱した「不適切な指導」が行なわれていたニュースにふれて、素浪人の身となって15年となってくるがいまだ自分の中に「学習指導要領」へのわだかまりが根強く残っていることに気づかされ驚いている。その存在を見て見ぬふりをすればストレスとなる。そこで、2日間にわたって、変遷と自分自身の関わりについて大まかに掘り起こしてみた。今日はラスト。違和感が残ったのはなぜだろうをとりとめなく考えてみたい。

 私は本来、教育は教育者の責任でするものだと思っている。ただ、近代以降より多くの人に学ぶ機会を保証するために公教育が普及する中で、教師個人の独りよがりにならないために教育内容に一定の指針が必要になってくるのは必然である。難しいのは公教育としての基準と教師個人の思いとのバランスのとり方である。

 学習指導要領に「従う」のか「従わない」のかという二者択一的な議論だけでずっと推移してきたきらいがある中で、私はまことに曖昧な立場で関わって来た。善と悪を決めつけることが苦手な自分自身の性質に起因する。

 絶対的に正しいことはないことを前提に議論していくことが大切だと思ってきた。現実の中にある問題点を様々な視点を持つ人たちと議論する中で、より良い解決法を見つけていく作業を繰り返すしかないのではないか。

 学習指導要領の改訂にともない、現場からいつも懸念の声が出た。その声を封じ込めるようにして教育を推し進めた結果、懸念されたことが露呈してくると検証することなく次の改訂に向かうということを繰り返してきた。

 今回の報道でも、学習指導要領が「絶対善」でその内容を逸脱したのは「不適切な授業」という決めつけに違和感を覚えたのである。もう少し掘り下げた報道がほしいと思った。「学習指導要領」は水戸黄門での葵の印籠ではないと思う。

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少し違和感が残ったニュース~その2~

2024年01月19日 | 日記
 奈良教育大学付属小学校で、学習指導要領を逸脱した「不適切な指導」が行なわれていたニュースがきっかけで、いろいろなことが思い出されてきた。

 私が小学校、中学校で経験した授業は、学校裁量で自由度が大きかったという印象を持っている。5年生、6年生では文部省の体育の研究指定校となったので2年間実験的な授業を受けてきた。このことが国立の附属学校では独自の試みをするところだという思いを持つ大きな経験だったと思う。中学では2年生から英語の能力別クラスによる授業があった。AクラスからDクラスと技術・家庭を学習するEクラスに分けられて英語の時間だけはそれぞれのクラスに分かれての授業となった。Aクラスでは教科書は暗唱テストのためにだけ使い、授業は高校生用の副テキストを使っていた。また、3年生の時に赴任してきた校長先生がいきなり主体的学習を打ち出し、一斉授業ではなく生徒による授業が実践された。

 次に、大きな衝撃を受けたのは、1971年(昭和46年)から実施された「現代化カリキュラム」といわれる改訂。特に、数学において大幅に内容が変わった。「数学教育の現代化」と言われ、大学で学習した内容が小、中、高校に未処理のまま導入された。「集合」などがその典型だった。中学校では1972年(昭和47年)度から実施されたので、教育実習を1973年(昭和48年)度に行った私は、教科書を目にした時、自分が学習した教科書とのギャップに驚いた。ただ、若かったので「これからの数学はこれだ!」とばかりに意気揚々と取り組んだ。ただ、附属中学校では手応えがあったものの、次年度就職して村野中学校で実践してみると急速に現代化を取り入れた矛盾が見え始め「これでは駄目だぞ」と思うようになった。そこから、民間教育団体の数学教育協議会などの研究会などに参加したりして広い視点から考え直した。

 「数学教育の現代化」は多くの研究者、現場の教師が危惧した通り、混乱だけをもたらし当初の目的を果たせないまま次の改訂(1980年・昭和55年)で取りやめになってしまった。そこで出てきたのが「ゆとり教育」である。ここから約20年間は、「詰め込み教育」を否定する方向で改訂が進む。現場では、系統的な知識や基礎学力の不足が危惧され教科書だけではなく補助プリントなど様々な工夫をして「ゆとり教育」の弊害を減らす取り組みがなされた。

 基本知識や基礎学力の不足が目に見える形で現れてきたため2002年(平成14年)の改訂で「総合的な学習の時間」が新設された。この「総合学習」というものが現場に新たな混乱をもたらせた。ちょうど最後の赴任校、枚方三中に転勤した頃であった。退職までの7年間でようやく形が定着してきたが、それまでの担当者の苦労は並大抵ではなかった。

 「脱ゆとり教育」を明確にした2011年(平成23年)の時は、現場を去っていたから「生きる力」はぐくむ教育という言葉が出て来ても傍観者気分であり、またぞろ現場は振り回されるのだろうなと同情した。

 去年、小学校に入学した孫の夏休み、冬休みの宿題に付き合い、久しぶりに教科書に接したがすさまじい「詰め込みやな」という印象を持った。

 教育には「正解」というものがないので、さまざまな教育方法が実践されてきた。本来ならばそれらを検証しながら模索していくのが筋だと思う。「これですべてが解決する」という魔法の方法はないことだけははっきりした。

 この実践⇒検証が抜け落ちているのが学習指導要領の改訂での一番の問題であるというのが、改訂と長く付き合ってきた私の思いである。
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少し違和感が残ったニュース~その1~

2024年01月18日 | 日記
 夕方のNHKニュースで、 「奈良教育大学付属小学校で、不適切な指導が」とタイトルが出て「何事ぞ!」と思ったが、「不適切な指導が行われていたのは9教科31項目の授業で、「図画工作」では国の検定で認定された教科書を使わずに、教員が作成したプリントなどで授業を行っていたほか、「国語」では3年生から6年生までで必修の毛筆による習字の授業が行われていなかった。また、全学年で義務づけられている「君が代」斉唱の指導は、6年生だけにしか行われていなかった。」という内容を聞いて「なんだ!」とテンションが下がってしまった。

 奈良教育大学附属小学校の事については何も知らないのでコメントのしようがないが、私の個人的な認識では、教育大付属高校では学習指導要領に強く縛られずに先進的な指導方法、内容を行なうことができる場ととらえていた。実際、私が教育実習で行った愛知教育大学附属名古屋中学校でも実験的な取り組みがなされていた。その成果を発表することで一般の中学校での授業改善のヒントにつながると考えていた。実習生の私にも、教科書のまま教えるのではなく、よく消化して自分なりにアレンジした教材を作ることが求められた。数学でも道徳でも自作のプリントで授業に臨んだ。「教科書教えるのではなく、教科教える」ということをよく言われた。その心は、教材を一度自分の身体を通すことが大切だということだった。

 そういう私にとっては、校長の記者会見には少し違和感を覚えた。学習指導要領には在職中振り回されたという思いが強いのでこの機会に振り返っておきたい。長くなるので今日は、取り合えずその変遷について整理した。

 1947年(昭和22年)-
*第二次世界大戦後しばらく行われていた学習指導要領。手引きという立場であり、各学校での裁量権が大きかった。1953年(昭和28年)までは学習指導要領(試案)という名称であった。
*小学校において、戦前からの修身、地理、歴史(国史)が廃止、社会科が新設され、家庭科が男女共修となった。自由研究が新設された。

1951年(昭和26年)~
*小学校の総授業時数は5,780コマ。中学校の総授業時数は3,045コマ。
*自由研究は廃止され、教科以外の活動(小学校)、特別教育活動(中学校)と改められた。中学校の習字は国語科に、国史は社会科に統合された。体育科は保健体育科に改められた。職業科は職業・家庭科に改められた。


1956年(昭和31年)~-
*高等学校の学習指導要領のみ改訂された。
*特別教育活動の指導時間数(週1〜3時間)が規定された(以前の学習指導要領でも指導時間数の目安は示されていた)。

1961年(昭和36年)~-
*系統性を重視したカリキュラム。道徳の時間の新設、科学技術教育の向上などで教育課程の基準としての性格の明確化を実現。
*公立学校に対して強制力がある学習指導要領が施行された。
*小学校6年間の総授業時数は5,821コマで、国・算・理・社の合計授業時数は3,941コマ。中学校3年間の総授業時数は3,360コマ。
*中学校の職業・家庭科が技術・家庭科に改められ、高等学校の古典、世界史、地理、数学II、物理、化学、英語にA、B(または甲・乙)の2科目を設け、生徒の能力・適性・進路などに応じていずれかを履修するなど、科目数が大幅に増加した。
*高等学校の外国語が必修となったほか、科目の履修に関する規定が増加した。

1971年(昭和46年)-~
*現代化カリキュラムといわれる濃密な学習指導要領。時代の進展に対応した教育内容の導入で教育内容の現代化を実現。
*小学校6年間の総授業時数は5,821コマで、国・算・理・社の合計授業時数は3,941コマ。中学校3年間の総授業時数は3,535コマ。
*高等学校の社会科や理科で旧課程のA・Bの区分は廃止、新たに地理A(系統地理的)、地理B(地誌的)などを設置した。

 ソ連が1957年(昭和32年)に人工衛星スプートニク1号を打ち上げたことは、アメリカの各界に「スプートニク・ショック」と呼ばれる衝撃が走った。アメリカ政府は、ソ連に対抗するために学校教育を充実し、科学技術を発展させようとした。これに伴って、「教育内容の現代化運動」と呼ばれる、小中学校からかなり高度な教育を行おうとする運動が起こった。この運動が日本にも波及し、濃密なカリキュラムが組まれたが、授業が速すぎるため「新幹線授業」などと批判された。当時は公立学校も私立学校も学習内容にはあまり違いがなかった。結局、教科書を消化できず、教科書の内容を一部飛ばすなどしてやらない単元を残したまま進級・卒業をさせる場合もあった。

1980年(昭和55年)~
 教科の学習内容が削減された学習指導要領(この当時は土曜日も毎週授業があった)。各教科などの目標・内容を絞り、ゆとりある充実した学校生活を実現。別名「第一次ゆとり教育」とも呼ばれ、当時若手だった寺脇研が主導した。文部科学省の出版する学制百二十年史によると、各教科の指導内容を大幅に精選し思い切って授業時間を減らしたことが大きな特色とある。この改訂より前は傾向として学習量が増える方向性を保っていたことから、日本の教育史を考えるうえでも非常に重要な分岐点となっている。いわゆる「ゆとり」への方向性は、1972年の日教組の提起以降、中曽根政権下での臨時教育審議会の答申などを踏まえて徐々に整備され、土曜日の隔週休日の導入、完全週休二日制への移行などの経緯をたどった。
*小学校6年間の総授業時数は5,785コマで、国・算・理・社の合計授業時数は3,659コマ。中学校3年間の総授業時数は3,150コマ。
*中学校の選択教科の選択肢が拡大された。高等学校の科目履修の基準が緩和された。

1992年(平成4年)~
新学力観の登場。個性をいかす教育を目指して改定された、教科の学習内容をさらに削減した学習指導要領。生活科の新設、道徳教育の充実などで社会の変化に自ら対応できる心豊かな人間の育成を実現。戦後6度目の改訂。
*小学校6年間の総授業時数は5,785コマで、国・算・理・社・生活の合計授業時数は3,659コマ。中学校3年間の総授業時数は3,150コマ。
*小学校の1・2年では理科・社会科に代えて生活科が導入された。

2002年(平成14年)~
 教育内容の厳選、「総合的な学習の時間」の新設により、基礎・基本を確実に身につけさせ、「いかに社会が変化しようと,自分で課題を見つけ,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,行動し,よりよく問題を解決する資質や能力」などの「生きる力」の育成を宣言し、生涯学習社会への移行を促していく。
*小学校6年間の総授業時数は5,367コマで、国・算・理・社・生活の合計授業時数は3,148コマ。中学校3年間の総授業時数は2,940コマ。

 学校週5日制が実施された。中学校では英語が必修となった(実質的には大部分の学校で以前も事実上必修扱いであった)。また、小学校中学年から高等学校では総合的な学習の時間が、高等学校では情報科および福祉科が創設された。その一方で、教科の学習内容が削減され、中学校・高等学校はクラブ活動(部活動)に関する規定が削除された。

2003年(平成15年)~
2002年(平成14年) の学習指導要領を一部改正。2003年(平成15年)12月に一部改正が行われ「過不足なく教えなければいけない」という歯止め規定の文言が消滅した。学習指導要領は最低限教えなければならない内容であり、その学習指導要領の内容を超えて、いわゆる「発展的な学習内容」も教えることができるようになった。

2011年(平成23年)~
 戦後8度目の改訂の学習指導要領。ゆとりでも詰め込みでもなく、知識、道徳、体力のバランスとれた力である生きる力の育成を実現。脱ゆとり教育とも呼ばれている。
 1980年(昭和55年)の改定以来、減り続けてきた授業時間はおよそ30年ぶりに増加。小学校の授業時数は6年間で現行より278コマ増えて5,645コマ、中学校は3年間で105コマ増え3,045コマとなる。前指導要領から開始された総合的な学習の時間の総授業時間は大幅に削減され、主要5教科(国語、算数・数学、理科、社会、英語)および保健体育の総授業時間が増加した。
 小学5、6年生に「外国語活動」の時間を創設。また、平成24年(2012年)4月から中学校の体育で男女ともに武道とダンスが必修になった

2018年(平成30年)~
2011年(平成23年)の学習指導要領を一部改正。2015年(平成27年)3月27日、学習指導要領を一部改正し、これまで教科外活動(領域)であった小学校・中学校の「道徳」を、「特別の教科 道徳」とし、教科へ格上げした。

2020年(令和2年) ~
戦後9度目の改訂の学習指導要領。「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」の導入やプログラミング教育の充実が図られる。
 小学校の授業時数は6年間で現行より140コマ増えて5,785コマとなり、前回の改訂から2回連続の増加となる。これは、小学3、4年生に「話す」「聞く」を中心に教科以外の教育活動(領域)として学習する「外国語活動」を、これまで小学5、6年生で行っていたものを前倒しして週1時間(年間35コマ)行い、小学5、6年生は「話す」「聞く」に加えて「読む」「書く」も含めた「外国語」と正式な教科として週2時間(年間70コマ)行うことにより、授業時数が増加したことによるものである。中学校は3年間で3,045コマと前回の改訂からの増減はない。

 戦後、それぞれの時期で生徒としてまた、教師として学習指導要領の改訂にともなうさまざまなことを経験してきた。附属小のニュースに接して、もう一度見直してみたいという思いに駆られた。次回は、私自身が経験したことにふれたい。






 
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阪神淡路大震災から29年

2024年01月17日 | 日記
 夜勤から帰って来た息子が開口一番「もう29年経ったんやな」と感慨深げだった。息子は高校生、私は今の息子よりも2歳若い43歳であった。時間の流れを感じてもおかしくはない。私は招提中に転勤した2年目で3年生を担当していた。二人とも歳を重ねたと苦笑いである。

 今年のテーマは「ともに」であった。阪神淡路大震災の昔話と能登半島地震の今のことが交互に話題となる。先日、大学時代に能登方面へ旅行をしたことをブログに書いた見附島(軍艦島)のことを息子にも話すと「その島、かなり崩れたみたいやで」とYouTubeを見せてくれた。前回の地震でも少し崩れたみたいだが、今回の崩れはその比ではないことがよくわかった。思い出の地であっただけに嘆息をつくばかり。熊本城や阿蘇神社は時間をかければ復興もできるが、自然が造りあげたものはそうもいかず残念である。
#shorts 【能登半島地震】ドローン映像 観光名所「見附島」 地震で崩れる | TBS NEWS DIG


 2つの地震のことが今日はどの局でも数多く取り上げられていた。それらを見ていて、我が家ではトイレ対策をしておかないといけないと思った。水や非常食は備蓄しているし、オール電化なので停電対策でカセットコンロも用意しているが、トイレに関しては無防備。両被災地に共通しているのは「トイレ問題」。遭遇したくはないが、南海トラフへの備えをしなければ、教訓が生かされたとはいえない。まずは自分のできることを!
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