編集発行人:藤田踏青
(兵庫県西宮市)
この句会報にはいつも
イメージ吟といって、
一枚の絵(この表紙絵ではない)から受ける
イメージを言葉で表現した句が掲載されている。
これが結構面白い試みで、毎号の楽しみになってきた。
が、きょうは
【万華鏡(珠玉の言葉)】で
藤田踏青さんが取り上げた中で
特に気になった、
次のような菊池寛の言葉について。
(田山花袋が死んだとき)「自分は同時代の作家だ。同時代のすべての作家が田山花袋に感心したということでは文学史を誤る。自分は花袋を認めないー」
(出典:『昭和動乱を語る・一流雑誌記者の証言』(経済往来社)
戦前から戦中にかけて中央公論社、講談社、文藝春秋社などの第一線編集者であった人達の座談会。)
そこで、
踏青さんは言う。
「文学史と文壇史とは異なり、究極的には表現論に向かうのではないか。
その事は、俳句史と俳壇史とは異なる事にも相通じるものがある。
そして、同時代では見えるものと見えないものが並立していることも事実である。」と。
言い換えればこれは、
中央の華やかな俳壇史が、
俳句史のように勘違いされるようなことが起こっているが、
これは決して俳句史(俳句表現史)と同じものではない。
同時代の俳句表現は、俳壇の外側にも確実に存在しているのだ。
目立たない、今は見えない、
かもしれないが。
というこようなことではないかな。
強く賛同します。
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