フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』(1)

2009年01月28日 | Weblog
 [注釈]

 * Aussi... : 文頭では、理由を表す接続詞の働きをします。
 * chaque fois que... : 「彼は線を一本引き終わるごとに…」
 * la me^me de'sillusion : ここは、これが sa come'die であることを踏まえると、anxieusement も、「がっかりした」表情も演技だということになるのでしょう。

 [試訳]

 ナンビクワラの人々はものを書くことを知らないとお思いでしょうか。実際彼らはひょうたんに何か点線やジクザクを記すことを別にすれば、なにかを描くこともしません。けれども、カデュヴェオの人々のところにいた時と同じように、私は紙や鉛筆を渡してみました。彼らは最初は、それをどうしていいのかわかりませんでした。でもある日見てみると、彼らはその紙にところどころ波打った横線を何本か引いていました。一体彼らは何をしょうとしていたのでしょうか。私は明らかな事実だけを見なければなりませんでした。彼らは書いていました。というよりも正確には、鉛筆を使って私と同じことをしょうとしていたのです。それが彼らが思いつくことの出来る唯一のことでした。というのも、私は何かを書いて彼らをおもしろがらせようとしたことなど、まだ一度もなかったからです。彼らのしたことは、ほとんどはそれだけでした。しかしグループの頭の理解はもっと深いものでした。おそらくは彼一人が書くことの機能を理解していたのです。ですから彼は私にブロック・ノートを要求しました。同じように紙とペンを手にして私たちは一緒に作業をするのです。私が彼に何かを尋ねても、彼が言葉で答えることはなく、紙に曲がりくねった線を書いて私に見せるのです。あたかも、それで私が彼の答えを理解できるかのように。彼自身自分の演技になかば入り込んでいるのです。一本線を引くたびに、それを深刻そうに点検します。まるで意味がそこからほとばしるかのように。また彼の表情にはこれでは伝わらないか、といった失望ものぞくのです。でもそうした失望も彼は意に介していません。というのも、彼の書いた文字には意味があって、私はその意味を読み解いている振りをしているということが、私たちの間では暗黙のうちに了解されているからです。そのあとすぐ言葉による説明が続くので、私には必要な解説を求める手間も省けるのです。
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 今週の、たしか月曜日の朝日新聞に Globe という別冊子が折り込んでありました。イタリア、アメリカ、日本の教育関係者や学生たちに現在の「教養」のありかたを問うた、興味深い特集でした。そうした記事を集めた背景には、もちろん、日本の大学における「教養」の荒廃と、その意味の問い直しがあります。
 みなさんが、レヴィ・ストロースに以前から関心を寄せてくれていたこと、本当に「有り難く」、うれしく思います。私たちの「知の層」は、まだまだ厚く、豊かなのでしょうか。それとも、時代によって、その層のあり方が大きく変動をしているということなのでしょうか…。
 次回は、ayant perdu ma direction. までとしましょう。
smarcel