[注釈]
* l'entreprise est passe'e sur le plan international, : l'entreprise とは、la lutte contre l'analphabe'tisme と le renforcement du contro^le des citoyens を意味しています。つまり、言語教育による市民の管理、支配のことです。
* des proble'mes qui furent les no^tres : 近代国家の設立が、学校教育を通しての「国語」の確立と、その「国語」によって統制された軍隊の組織化と不可分であったことを思い出してみて下さい。Moze さんが紹介された「Japan の軌跡」は見逃しましたが、おそらく台湾に強いたのも同じ構図だったのでしょう。
* peuples mal entrai^ne's par la parole e'crite : そうした近代を迎えるはるか以前にも、書き言葉による統率に従順に従わなかった人々がいたのです。けれども、彼らとて、図書館に代表される「知の組織化」には、抗えなかった
( vulne'rables )のです。
[試訳]
文字習得の企ては、若い国家の間で結ばれたこうした共闘によって、国家レベルから国際的なレベルに移りました。そうした国々は、一世紀か二世紀前に私たちが直面していたのと同じ問題に向き合っていたのです。 - 経済的に潤った国際社会は、意志によって変更可能ながらもある型によって思考することや、教化の努力を促すきっかけを与えることが、書かれた言葉による訓練によっても難しい人々の反動が、自分たちの安定にとって脅威となることを恐れていました。知識が貯えられた図書館に足を運ぶことで、そうした人々は、印刷された文書がさらに大きな規模で広めるデタラメに騙されやすくなっているのです。おそらく、賽は投げられてしまったのです。一方、私のナンビクワラ村では、石頭の人々が、結局は最も賢明だったのです。自分たちの首長が文明化のカードを切った後に、その元を去った人々(私の訪問の後、彼は多くの仲間に見捨てられてしまった)は、おぼろげながらも、書くことと裏切りが、ともに自分たちの元に入り込んで来ることを理解してたのでしょう。少し離れた奥地に身を寄せて、彼らは、書かれた言葉にさらされるまでの猶予を得たのです。けれども、書くことが自身の権力の支えとなることを一瞬に見抜き、書くという手段を使わないながらも、その制度の根幹に触れえた首長の慧眼は、見事なものでした。
…………………………………………………………………………………….
さて、次回からは おなじみ Le Monde に掲載された Fre'de'ric Lenoir の論考を読みます。ここ最近、ローマ法王ベネディクト16世の言動が、フランスのみならず、広く西洋社会に大きな波紋を拡げることが何度か続きました。その内容は、日本の新聞でも比較的詳しく報じられいます。
『哲学者キリスト』という大変話題になった本を記したルノワール氏が、それらの出来事をめぐって同紙に寄せた文章を、何回かに分けて読むことにします。週末までにはテキストをお届けするようにします。
* l'entreprise est passe'e sur le plan international, : l'entreprise とは、la lutte contre l'analphabe'tisme と le renforcement du contro^le des citoyens を意味しています。つまり、言語教育による市民の管理、支配のことです。
* des proble'mes qui furent les no^tres : 近代国家の設立が、学校教育を通しての「国語」の確立と、その「国語」によって統制された軍隊の組織化と不可分であったことを思い出してみて下さい。Moze さんが紹介された「Japan の軌跡」は見逃しましたが、おそらく台湾に強いたのも同じ構図だったのでしょう。
* peuples mal entrai^ne's par la parole e'crite : そうした近代を迎えるはるか以前にも、書き言葉による統率に従順に従わなかった人々がいたのです。けれども、彼らとて、図書館に代表される「知の組織化」には、抗えなかった
( vulne'rables )のです。
[試訳]
文字習得の企ては、若い国家の間で結ばれたこうした共闘によって、国家レベルから国際的なレベルに移りました。そうした国々は、一世紀か二世紀前に私たちが直面していたのと同じ問題に向き合っていたのです。 - 経済的に潤った国際社会は、意志によって変更可能ながらもある型によって思考することや、教化の努力を促すきっかけを与えることが、書かれた言葉による訓練によっても難しい人々の反動が、自分たちの安定にとって脅威となることを恐れていました。知識が貯えられた図書館に足を運ぶことで、そうした人々は、印刷された文書がさらに大きな規模で広めるデタラメに騙されやすくなっているのです。おそらく、賽は投げられてしまったのです。一方、私のナンビクワラ村では、石頭の人々が、結局は最も賢明だったのです。自分たちの首長が文明化のカードを切った後に、その元を去った人々(私の訪問の後、彼は多くの仲間に見捨てられてしまった)は、おぼろげながらも、書くことと裏切りが、ともに自分たちの元に入り込んで来ることを理解してたのでしょう。少し離れた奥地に身を寄せて、彼らは、書かれた言葉にさらされるまでの猶予を得たのです。けれども、書くことが自身の権力の支えとなることを一瞬に見抜き、書くという手段を使わないながらも、その制度の根幹に触れえた首長の慧眼は、見事なものでした。
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さて、次回からは おなじみ Le Monde に掲載された Fre'de'ric Lenoir の論考を読みます。ここ最近、ローマ法王ベネディクト16世の言動が、フランスのみならず、広く西洋社会に大きな波紋を拡げることが何度か続きました。その内容は、日本の新聞でも比較的詳しく報じられいます。
『哲学者キリスト』という大変話題になった本を記したルノワール氏が、それらの出来事をめぐって同紙に寄せた文章を、何回かに分けて読むことにします。週末までにはテキストをお届けするようにします。