[注釈]
* malgre' tout : この二語の組み合わせで「それでも」を意味します。ですから、ここは、les petites phrases blessantes を補足説明しているように思えます。
* ce rituel truffe' de non-dits : rituel は長男の法要のこと。
* Pro^nant un regard enchanteur : proner = vancer et recommander sans re'serve et avec insistance ちょっと乱暴に訳せば「魅力的な視点が売りの」となるでしょうか。
* le gamin (...) fait les frais de la blessure non referme'e. : faire les frais de... で、「…の費用を負担する、犠牲になる」
* On le trouve ridicule. : 後の文脈も考えると le = le gamin。 でも、当時の子供は十五年の月日の後、青年となっています。「彼のことを笑い者にする」
[試訳]
私たちは、小津や成瀬のすばらしい映画世界にまた浸ることができる。ありふれたある核家族の記録。大人たちの不如意。草花を踏みつけ、冷蔵庫をあさる子供たちの無邪気さがより合されている。あちらでひそひそ話が交わさ、こちらでは携帯電話が鳴る。ちょっとした言葉が身内を傷つけることはあっても、悪気はまったくみられない。是枝監督は、はっきりと口にされない事ごとに充ちたこの家族行事を指揮しながら、やさしくもいじわるな視線をけっして忘れることはない。魅惑する視点を前面に出した『歩いても、歩いても』は、抑制の利いたユーモアーに彩られた繊細な作品である。
家族の場をしきり、生活を前向きに生きることをモットーとする母親は、遠慮がちな息子の嫁に着物を譲り、夫を急き立て、叱り、思い出のレコードを引っぱり出して来てしばし感傷に浸ったりもする。けれども、彼女の残酷さも明らかになる。毎年長男の法事に、長男に海で助けられた子供を招いている。落ちこぼれとなった青年は、家族の癒されない傷の痛みを背負わされる。青年は笑い者にされる。サディスムから彼を呼びつけているのだ。
ここで問題となっているのは、「大切なものを失いながらも、それでも一人ひとりが生きてゆく力」である。生き続けようとする本能は、人々がしっかりと土を踏みしめる行為に具現化されている。近親者を失い打ちひしがれても、歩みを進めることをやめてはいけない。映画の中で幾度となく散歩が描かれるが、ある回は墓参りとなっている。
……………………………………………………………………………………………..
しきりに報道されている通り、今週は関西のほとんどの大学では休講措置がとられています。ぼくも、月曜日お昼前に「登校」したところ、講師控え室の事務の方から、午後からの授業が中止になった旨知らされました。ぼくはケイタイという文明の利器を持ち合わせていないので、連絡が遅れたのです。
思いがけなく時間に恵まれたので、早く帰宅して、<< Still walking >> を見たよとメールをくれた madame に、同映画の感想を綴ることにしました。
この年の離れた友人は、実は数十年前に、プルースト研究者を目指していたノルマリアンだった息子さんを亡くされています。その話を直接友人から聞かされたことはないのですが、ぼくが留学を終えて日本に帰ってから、その息子さんの博士準備論文をまとめた小さな書物を届けてくれました。
そんな友人に、あの映画の感想を率直に綴ったのは少し軽率だったのでは、と今になって気を揉んでいるところです。
さて、次回はこの記事を最後まで読むことにしましょう。
smarcel
* malgre' tout : この二語の組み合わせで「それでも」を意味します。ですから、ここは、les petites phrases blessantes を補足説明しているように思えます。
* ce rituel truffe' de non-dits : rituel は長男の法要のこと。
* Pro^nant un regard enchanteur : proner = vancer et recommander sans re'serve et avec insistance ちょっと乱暴に訳せば「魅力的な視点が売りの」となるでしょうか。
* le gamin (...) fait les frais de la blessure non referme'e. : faire les frais de... で、「…の費用を負担する、犠牲になる」
* On le trouve ridicule. : 後の文脈も考えると le = le gamin。 でも、当時の子供は十五年の月日の後、青年となっています。「彼のことを笑い者にする」
[試訳]
私たちは、小津や成瀬のすばらしい映画世界にまた浸ることができる。ありふれたある核家族の記録。大人たちの不如意。草花を踏みつけ、冷蔵庫をあさる子供たちの無邪気さがより合されている。あちらでひそひそ話が交わさ、こちらでは携帯電話が鳴る。ちょっとした言葉が身内を傷つけることはあっても、悪気はまったくみられない。是枝監督は、はっきりと口にされない事ごとに充ちたこの家族行事を指揮しながら、やさしくもいじわるな視線をけっして忘れることはない。魅惑する視点を前面に出した『歩いても、歩いても』は、抑制の利いたユーモアーに彩られた繊細な作品である。
家族の場をしきり、生活を前向きに生きることをモットーとする母親は、遠慮がちな息子の嫁に着物を譲り、夫を急き立て、叱り、思い出のレコードを引っぱり出して来てしばし感傷に浸ったりもする。けれども、彼女の残酷さも明らかになる。毎年長男の法事に、長男に海で助けられた子供を招いている。落ちこぼれとなった青年は、家族の癒されない傷の痛みを背負わされる。青年は笑い者にされる。サディスムから彼を呼びつけているのだ。
ここで問題となっているのは、「大切なものを失いながらも、それでも一人ひとりが生きてゆく力」である。生き続けようとする本能は、人々がしっかりと土を踏みしめる行為に具現化されている。近親者を失い打ちひしがれても、歩みを進めることをやめてはいけない。映画の中で幾度となく散歩が描かれるが、ある回は墓参りとなっている。
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しきりに報道されている通り、今週は関西のほとんどの大学では休講措置がとられています。ぼくも、月曜日お昼前に「登校」したところ、講師控え室の事務の方から、午後からの授業が中止になった旨知らされました。ぼくはケイタイという文明の利器を持ち合わせていないので、連絡が遅れたのです。
思いがけなく時間に恵まれたので、早く帰宅して、<< Still walking >> を見たよとメールをくれた madame に、同映画の感想を綴ることにしました。
この年の離れた友人は、実は数十年前に、プルースト研究者を目指していたノルマリアンだった息子さんを亡くされています。その話を直接友人から聞かされたことはないのですが、ぼくが留学を終えて日本に帰ってから、その息子さんの博士準備論文をまとめた小さな書物を届けてくれました。
そんな友人に、あの映画の感想を率直に綴ったのは少し軽率だったのでは、と今になって気を揉んでいるところです。
さて、次回はこの記事を最後まで読むことにしましょう。
smarcel