[注釈]
* de tel ou tel qu'il est noir ou juif (…) : これは少し格調高い用法ですが、冠詞なしの 不定代名詞 tel は「ある者」を意味します。ex. Tel pre'fe`re la mer, tel autre la montagne.
* une carte re'dige'e dans la me^me langue : ここは多くの方が訳されように「同じ言語で」という解釈で問題ありません。la me^me langue は行為の主体ではないので re'dige'e de la me^me langue 「同じ言語によって」とはなりません。
* Je ne suis pas francais : francais は、「自己同一性を保証する、なにかの実体としての 」francais という意味合いでしょう。Francais となれば、帰属集団を指すことになります。
* Non, il s'agit d'appartenance. : Non, il ne s'agit pas d'identite', mais d'apppartenance. ということです。
[試訳]
たとえば、ある人物に関して、その人が黒人であるとかユダヤ人であるとか女性である言えば、それは人種差別的な発言となる。なぜなら、その言葉は帰属と自己同一性をいっしょにしてしまっているからだ。私そのものは、フランス人でも、ガスコーヌ人でもない。私は、私のものと同じ言語で書かれたカードをポケットに携帯し、時にオック語で夢を見る人々のグループに属している。誰かを、その人の持つ複数の帰属のひとつだけに押し込めてしてしまうことで、その人物を迫害してしまうこともありうる。ところで、私たちが、宗教的、文化的、国民的な同一性を話題にしている時には、そうした過ちを犯し、そうした侮蔑を与えているのだ。そこで問われているのは、自己同一性などではなく、帰属にすぎない。それでは、私とは誰であろうか。私とは私である。ただそれだけのこと。ただ同時に私は、多数の帰属の総体でもあるが、その全貌は死んでみないとわからない。というのも、おしなべて進歩とは、あらたな集合に入り込むことだからだ。私がトルコ語を習えば、私はトルコ語を話す人ということになる。原付バイクを修理できる人ともなれば、ゆで卵を調理できる人ともなるだろう。国民的な同一性など、錯誤であり、過ちである。
……………………………………………………………………………………
明子さんが仰るように、Les minarets 建造中止をめぐるスイスでの国民投票結果は、フランスでの Identite' nationale の議論に大きな影響を及ぼしています。フランス政府もようやく、こうした議論がいかに危険で不毛なものであるかに気づかされたのではないでしょうか。
ぼくは恥ずかしながら、今に至るまでラテン語を本格的に学んだことはありません。大学2年の時にラテン語を履修しようとしたのですが、たまたまなにかの必修の授業と重なり、次善の策として古典ギリシア語を取りました。週一回(学生だった当時の実感としては)たった2単位の授業でしたが、ほとんど毎日1~2時間の予習に追われた記憶があります。でも思いのほか楽しくて、自身の語学好きに気づかされました。でも今では、パイデュオー「教育する」という基本動詞の活用さえすっかり忘れています。
ラテン語もぼくの大きな宿題のひとつです。
さて、次回からは巷のクリスマス色に因んで、パウロの「コリント人への手紙」を読みます。テキストは今しばらくお待ち下さい。
smarcel
* de tel ou tel qu'il est noir ou juif (…) : これは少し格調高い用法ですが、冠詞なしの 不定代名詞 tel は「ある者」を意味します。ex. Tel pre'fe`re la mer, tel autre la montagne.
* une carte re'dige'e dans la me^me langue : ここは多くの方が訳されように「同じ言語で」という解釈で問題ありません。la me^me langue は行為の主体ではないので re'dige'e de la me^me langue 「同じ言語によって」とはなりません。
* Je ne suis pas francais : francais は、「自己同一性を保証する、なにかの実体としての 」francais という意味合いでしょう。Francais となれば、帰属集団を指すことになります。
* Non, il s'agit d'appartenance. : Non, il ne s'agit pas d'identite', mais d'apppartenance. ということです。
[試訳]
たとえば、ある人物に関して、その人が黒人であるとかユダヤ人であるとか女性である言えば、それは人種差別的な発言となる。なぜなら、その言葉は帰属と自己同一性をいっしょにしてしまっているからだ。私そのものは、フランス人でも、ガスコーヌ人でもない。私は、私のものと同じ言語で書かれたカードをポケットに携帯し、時にオック語で夢を見る人々のグループに属している。誰かを、その人の持つ複数の帰属のひとつだけに押し込めてしてしまうことで、その人物を迫害してしまうこともありうる。ところで、私たちが、宗教的、文化的、国民的な同一性を話題にしている時には、そうした過ちを犯し、そうした侮蔑を与えているのだ。そこで問われているのは、自己同一性などではなく、帰属にすぎない。それでは、私とは誰であろうか。私とは私である。ただそれだけのこと。ただ同時に私は、多数の帰属の総体でもあるが、その全貌は死んでみないとわからない。というのも、おしなべて進歩とは、あらたな集合に入り込むことだからだ。私がトルコ語を習えば、私はトルコ語を話す人ということになる。原付バイクを修理できる人ともなれば、ゆで卵を調理できる人ともなるだろう。国民的な同一性など、錯誤であり、過ちである。
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明子さんが仰るように、Les minarets 建造中止をめぐるスイスでの国民投票結果は、フランスでの Identite' nationale の議論に大きな影響を及ぼしています。フランス政府もようやく、こうした議論がいかに危険で不毛なものであるかに気づかされたのではないでしょうか。
ぼくは恥ずかしながら、今に至るまでラテン語を本格的に学んだことはありません。大学2年の時にラテン語を履修しようとしたのですが、たまたまなにかの必修の授業と重なり、次善の策として古典ギリシア語を取りました。週一回(学生だった当時の実感としては)たった2単位の授業でしたが、ほとんど毎日1~2時間の予習に追われた記憶があります。でも思いのほか楽しくて、自身の語学好きに気づかされました。でも今では、パイデュオー「教育する」という基本動詞の活用さえすっかり忘れています。
ラテン語もぼくの大きな宿題のひとつです。
さて、次回からは巷のクリスマス色に因んで、パウロの「コリント人への手紙」を読みます。テキストは今しばらくお待ち下さい。
smarcel