フランス語読解教室 II

 多様なフランス語の文章を通して、フランス語を読む楽しさを味わってみて下さい。

パウロの手紙 (1)

2009年12月16日 | Weblog
 [注釈]

 * ce qui la ferait de’pendre de... : ce は直前までの内容、つまり que l’action moralement bonne peut e^tre de’finie par les re’sultats de l’action, par son utilite’ 「道徳的に善いとされる行為は、行為の結果やその有用性によって定義されること」を指しています。で、そうなってしまえば、善行もたかだか利益条件によって左右されてしまう、ということです。
 * une sorte d’e’gosime dissimule’ ainsi de toutes les actions exte’rieurement bonnes : 実は、ここの ainsi de がよくわかりません。「たとえば表面的に善なる行為によって隠された一種のエゴイズム」としておきます。
 * << amour de bienveillance >> : ここも勉強不足で、おそらく定訳があるのでしょうが、「慈愛」としておきます。

 [試訳]
 
 パウロが善の原理として讃える愛を、道徳の領域に移した哲学的観念が、カントが『道徳形而上学の基礎づけ』で定義した「善良なる意志」である。同書のなかでも第一部がとりわけ、使徒パウロのテキストの一種の解説、さらには哲学的な展開ともなっている。道徳の原理を打ち立てるにあたってカントは、道徳的に善なる行為は、行為の結果、その有用性によっては定義できないことを示している。もしそうであるならば、善なる行為は、ある種の利益条件や、意志の不確かな動機に左右されることになるからである。実際、私たちはなにか利益を当てにしたり、まったくうわべだけの善行のように、ある種のエゴイズムを隠しても、よい行為を行うこともできる。そうした法には適っている行為をカントは「適法性」とよんだ。ところで、愛のみが、無私で無償であり、ある目論見から自由でいられる。同様に、善なる行為は、善良なる意志によって、すなわち善だけを目指して、つまり善良なる意志、善のみをのぞむ意志によってなされる行為である。よってそうした行為は「その見返りを求めず」、そこから結果する利益をも求めない。このように理解される善良なる意志は、無償の愛であり、とりわけデカルトやマルブランシュが「慈愛」と呼んだものである。
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 それでは、次回はパウロ書簡を読むことにしましょう。
 フランスでも、先週末から本格的な寒波に襲われ、新型インフルエンザの一層の拡大も心配されています。関西も、今日から週末にかけて日に日に寒くなってゆくようです。どうかみなさんも、お身体には気をつけて下さい。
 smarcel