[注釈]
*Il n’y a pas de psychologie amoureuse, sinon sous la forme...: ne ...pas...sinon...「……でなければ…でない」という二重否定となっています。つまり、「恋愛心理」といってもla dissection maniaque ではないか、ということです。
* L’amour est du temporel qui joue a` pre’tendre le contraire ; le contraire は、le temporel 「はかないもの」の反対ですから、「永遠」を意味しています。
* Celles de Swann et d’Odette...Celle du narrateur pour Gilberte...: Celles は、性は異なりますが des amours としか読みようがありません。でも、「恋」を指示代名詞の女性形で表した著者の「錯誤行為」は興味深く、情愛深いamours は、母・祖母を含めた女たちcellesのものなのかもしれません。
* de quelque sexe qu’il provienne : il =plaisir, 「その快楽がどんな性から生まれたものでも」つまり、主人公「わたし」にとって拭うことの出来ない、アルベルチーヌの同性愛疑惑を踏まえています。
[試訳]
恋とは、自分のことがわからない「わたし」と、そんな「わたし」の欲望がたえまなく作り、作り直す対象との間の追いかけっこの軌跡である。恋愛心理なるものがあるといっても、それはきわめて移り気な態度や言葉や行為の偏執狂的な腑分けでしかない。そこからはどんな知識も生まれず、ただ無数の仮説や解釈が寄せ集められ、やがては狂気と紙一重に至る。プルーストにおいては(ベケットも同様)分析の結果はつねに悲劇的であり、喜劇的でもある。つまり哀れを催す。
恋とは、永遠を気取っていても、しょせん移ろうものである。美も同じこと。つまり、慧眼な審美家であったプルーストが知らぬはずがないのは、美も、選民が自分たちに都合良く作り上げた発明であり、時代ごとの選民たちの欲望にしたがって、その基準も変化するものである。したがって移り気な、通じ合えない、盲目の、滑稽ないくつもの恋があることになる。嫉妬にとり憑かれ錯乱にまで至る、スワンとオデットの恋。むなしくも初恋のときめきを取り戻そうとする、語り手のジルベルトに対する恋。「時には奔放で、時には気取った」ジゼルの恋。サン・ルーと娼婦ラシェルとの恋。男女を問わず、肉体の、あるいは精神のどんな歓びにも貪欲なアルベルチーヌに対する語り手の恋。シャルルュスと仕立て屋ジュピアンの、そしてその後釜となる音楽家モレルとの恋。そのモレルはまたサン・ルーの愛人ともなるのだが、その一方で後者はジルベルトを妻に迎えていた。
………………………………………………………………………………………
shokoさん、お忙しいなか訳文の寄稿ありがとうございました。そうです、課題文が少し長い時は全訳でなくとも一部だけでもかまいません。できるだけ継続してフランス語に取り組んでください。
さて、Gallimard社の編集者のツィッターで以下の記事のことを知りました。
http://www.actualitte.com/actualite/monde-edition/societe/kenzaburo-oe-ne-pas-trahir-la-memoire-des-victimes-d-hiroshima-32002.htm
いわゆる脱原発運動に積極的にかかわっている大江健三郎のことを扱っています。大江は、日本の戦後の原発推進政策がヒロシマ・ナガサキの原爆犠牲者の魂を踏みにじるものであったと、一貫して訴えてきたのですが、東北大震災の万にも上る犠牲者の声に耳を傾けることなく、私たちは安易に「復興特需」などと言挙げすることは慎むべきなのだ。そんな思いをあらたにしました。
それでは、「恋愛小説の歴史」の残りの試訳は、来週水曜日22日にお目にかけます。
大阪は今日で三日続きの冷たい雨が、まだ降り続いています。流感の拡散にはこれで少し歯止めがかかるのかもしれませんが、青空を仰いで手足を伸ばしてみたいものです。週末にはもう一段の寒さの底となるとか。みなさんもどうかお身体には気をつけて下さい。Shuhei
*Il n’y a pas de psychologie amoureuse, sinon sous la forme...: ne ...pas...sinon...「……でなければ…でない」という二重否定となっています。つまり、「恋愛心理」といってもla dissection maniaque ではないか、ということです。
* L’amour est du temporel qui joue a` pre’tendre le contraire ; le contraire は、le temporel 「はかないもの」の反対ですから、「永遠」を意味しています。
* Celles de Swann et d’Odette...Celle du narrateur pour Gilberte...: Celles は、性は異なりますが des amours としか読みようがありません。でも、「恋」を指示代名詞の女性形で表した著者の「錯誤行為」は興味深く、情愛深いamours は、母・祖母を含めた女たちcellesのものなのかもしれません。
* de quelque sexe qu’il provienne : il =plaisir, 「その快楽がどんな性から生まれたものでも」つまり、主人公「わたし」にとって拭うことの出来ない、アルベルチーヌの同性愛疑惑を踏まえています。
[試訳]
恋とは、自分のことがわからない「わたし」と、そんな「わたし」の欲望がたえまなく作り、作り直す対象との間の追いかけっこの軌跡である。恋愛心理なるものがあるといっても、それはきわめて移り気な態度や言葉や行為の偏執狂的な腑分けでしかない。そこからはどんな知識も生まれず、ただ無数の仮説や解釈が寄せ集められ、やがては狂気と紙一重に至る。プルーストにおいては(ベケットも同様)分析の結果はつねに悲劇的であり、喜劇的でもある。つまり哀れを催す。
恋とは、永遠を気取っていても、しょせん移ろうものである。美も同じこと。つまり、慧眼な審美家であったプルーストが知らぬはずがないのは、美も、選民が自分たちに都合良く作り上げた発明であり、時代ごとの選民たちの欲望にしたがって、その基準も変化するものである。したがって移り気な、通じ合えない、盲目の、滑稽ないくつもの恋があることになる。嫉妬にとり憑かれ錯乱にまで至る、スワンとオデットの恋。むなしくも初恋のときめきを取り戻そうとする、語り手のジルベルトに対する恋。「時には奔放で、時には気取った」ジゼルの恋。サン・ルーと娼婦ラシェルとの恋。男女を問わず、肉体の、あるいは精神のどんな歓びにも貪欲なアルベルチーヌに対する語り手の恋。シャルルュスと仕立て屋ジュピアンの、そしてその後釜となる音楽家モレルとの恋。そのモレルはまたサン・ルーの愛人ともなるのだが、その一方で後者はジルベルトを妻に迎えていた。
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shokoさん、お忙しいなか訳文の寄稿ありがとうございました。そうです、課題文が少し長い時は全訳でなくとも一部だけでもかまいません。できるだけ継続してフランス語に取り組んでください。
さて、Gallimard社の編集者のツィッターで以下の記事のことを知りました。
http://www.actualitte.com/actualite/monde-edition/societe/kenzaburo-oe-ne-pas-trahir-la-memoire-des-victimes-d-hiroshima-32002.htm
いわゆる脱原発運動に積極的にかかわっている大江健三郎のことを扱っています。大江は、日本の戦後の原発推進政策がヒロシマ・ナガサキの原爆犠牲者の魂を踏みにじるものであったと、一貫して訴えてきたのですが、東北大震災の万にも上る犠牲者の声に耳を傾けることなく、私たちは安易に「復興特需」などと言挙げすることは慎むべきなのだ。そんな思いをあらたにしました。
それでは、「恋愛小説の歴史」の残りの試訳は、来週水曜日22日にお目にかけます。
大阪は今日で三日続きの冷たい雨が、まだ降り続いています。流感の拡散にはこれで少し歯止めがかかるのかもしれませんが、青空を仰いで手足を伸ばしてみたいものです。週末にはもう一段の寒さの底となるとか。みなさんもどうかお身体には気をつけて下さい。Shuhei