[注釈]
*une fixite' du ragard qui surprend. : 何かをじっと見つめるギャランスの目が私たちを驚かすのでしょう。
*Mais pas de quoi s'alarmer : s'alarmer de ….…を心配する。ですから、「心配することはなにもない」
*ce ne saurait e^tre avec la prise de distance...: ne +条件法 savoir + inf. 「…できない」
[試訳]
スカーレット&フィリップ・ルリケ『ヘンデルを聴くよ !』
女の子の名はギャランス。おそらくその両親、この本の著者たちは「天井桟敷の人々」に思い出があったのであろう。
娘のギャランスは明るい眼の色を、ほとんどワスレナグサのような、あまりにも明るい眼の色をしている。じっと見詰めるその眼は私たちをドキマギさせる。おとなしい、ひょっとすると、おとなしすぎる女の子。けれども心配するようなことはなにもなかった。少し発達が遅れていることをのぞけば。
それからさまざまな検査や、有名な専門医の診察が続く。それでも診断は曖昧なまま。ただ困惑し、多くも語られない。ギャランスは他の子どもたちとは違う、普通ではない。ギャランスは特別だし、きっとこれからも特別なままなのだ。「広汎性発達障碍」というのが最終的な診断であった。
こうした障碍を、ギャランスのふた親は観察するだけではなく、日々生きることとなる。二人は娘の振る舞い、言葉、反応、激しい発作などをノートに記すのだが、それは距離をおいた医療者の観察となるはずもない。二人は驚き、ときに娘の発見を、飛躍を喜び、また不安に沈む。絶望と希望が交錯する。
十余年に及ぶ、ギャランスと共にした生活からこの希有な証言は生まれた。その短い各章を通じて、多くの専門書にも増して、私たちは「障碍」について教えられる。なによりも、この普通ではない女の子、くり返し「ヘンデルを聴くよ !」とせがむギャランスを、私たち読者は愛さずにはいられない。
…………………………………………………………………………………………….
それでは、次回より<<Ecouter Hanendel>>の本文を読むことにします。
この書物に興味を持ったのは、前回もお話ししたように、なによりもその文体が魅力的だったからですが、実はもうひとつ、ちょっとしたきっかけがありました。
この春フランスで<<Oslo, le 31 aou^t>>というノルウェーの映画を二度見ました。薬物患者の更生施設からの退院を許可された文学青年が、ふたたび大量の薬物の摂取に因って死に至るまでの数日を追った作品です。その作品のラスト、廃墟のようなアパルトマンで青年は薬物に再び手を染めるのですが、その直前に、調律もあやうい、打ち捨てられたようなピアノの前に座り、ヘンデルの旋律を奏でるのでした。その短い一節にすっかり魅せられたのですが、音楽に疎いぼくは、それが誰の、どんな古典音楽かもわからず、エンド・ロールを最後まで確かめてようやく、それがヘンデルの作品であることを知ったのでした。
後日ピアノに詳しい友人に聴いてみたところ、ヘンデルはピアノの独奏曲は作っておらず、なにかの作品を編曲したものだろうということでした。
そんなこともあって、<<Ecouter Haendel>>を手に取ってみました。
さて、実はひょんなことから9月の初旬に大阪を離れることになりました。またそれ以前に、毎夏トゥールーズで一月余りの休暇を過ごす高齢の恩師からパリ近郊のご自宅のお留守番を頼まれ、その役目を果たすべく、8月はお盆の頃までIssy-les-Moulineauxという街で過ごすことになっています。
それで、今後ですが、新しいテキストの試訳を7月18, 25日の両日お目にかけ、そのあと勝手ながら夏休みとさせて下さい。<<Ecouter...>>は夏休みを挟んで読むことになりますが、Rentre'e scolaire,は、転居先での生活が落ち着くだろう9月半ば頃を予定しています。
テキストはこの週末までにはみなさんのもとをお届けします。
Smarcel
*une fixite' du ragard qui surprend. : 何かをじっと見つめるギャランスの目が私たちを驚かすのでしょう。
*Mais pas de quoi s'alarmer : s'alarmer de ….…を心配する。ですから、「心配することはなにもない」
*ce ne saurait e^tre avec la prise de distance...: ne +条件法 savoir + inf. 「…できない」
[試訳]
スカーレット&フィリップ・ルリケ『ヘンデルを聴くよ !』
女の子の名はギャランス。おそらくその両親、この本の著者たちは「天井桟敷の人々」に思い出があったのであろう。
娘のギャランスは明るい眼の色を、ほとんどワスレナグサのような、あまりにも明るい眼の色をしている。じっと見詰めるその眼は私たちをドキマギさせる。おとなしい、ひょっとすると、おとなしすぎる女の子。けれども心配するようなことはなにもなかった。少し発達が遅れていることをのぞけば。
それからさまざまな検査や、有名な専門医の診察が続く。それでも診断は曖昧なまま。ただ困惑し、多くも語られない。ギャランスは他の子どもたちとは違う、普通ではない。ギャランスは特別だし、きっとこれからも特別なままなのだ。「広汎性発達障碍」というのが最終的な診断であった。
こうした障碍を、ギャランスのふた親は観察するだけではなく、日々生きることとなる。二人は娘の振る舞い、言葉、反応、激しい発作などをノートに記すのだが、それは距離をおいた医療者の観察となるはずもない。二人は驚き、ときに娘の発見を、飛躍を喜び、また不安に沈む。絶望と希望が交錯する。
十余年に及ぶ、ギャランスと共にした生活からこの希有な証言は生まれた。その短い各章を通じて、多くの専門書にも増して、私たちは「障碍」について教えられる。なによりも、この普通ではない女の子、くり返し「ヘンデルを聴くよ !」とせがむギャランスを、私たち読者は愛さずにはいられない。
…………………………………………………………………………………………….
それでは、次回より<<Ecouter Hanendel>>の本文を読むことにします。
この書物に興味を持ったのは、前回もお話ししたように、なによりもその文体が魅力的だったからですが、実はもうひとつ、ちょっとしたきっかけがありました。
この春フランスで<<Oslo, le 31 aou^t>>というノルウェーの映画を二度見ました。薬物患者の更生施設からの退院を許可された文学青年が、ふたたび大量の薬物の摂取に因って死に至るまでの数日を追った作品です。その作品のラスト、廃墟のようなアパルトマンで青年は薬物に再び手を染めるのですが、その直前に、調律もあやうい、打ち捨てられたようなピアノの前に座り、ヘンデルの旋律を奏でるのでした。その短い一節にすっかり魅せられたのですが、音楽に疎いぼくは、それが誰の、どんな古典音楽かもわからず、エンド・ロールを最後まで確かめてようやく、それがヘンデルの作品であることを知ったのでした。
後日ピアノに詳しい友人に聴いてみたところ、ヘンデルはピアノの独奏曲は作っておらず、なにかの作品を編曲したものだろうということでした。
そんなこともあって、<<Ecouter Haendel>>を手に取ってみました。
さて、実はひょんなことから9月の初旬に大阪を離れることになりました。またそれ以前に、毎夏トゥールーズで一月余りの休暇を過ごす高齢の恩師からパリ近郊のご自宅のお留守番を頼まれ、その役目を果たすべく、8月はお盆の頃までIssy-les-Moulineauxという街で過ごすことになっています。
それで、今後ですが、新しいテキストの試訳を7月18, 25日の両日お目にかけ、そのあと勝手ながら夏休みとさせて下さい。<<Ecouter...>>は夏休みを挟んで読むことになりますが、Rentre'e scolaire,は、転居先での生活が落ち着くだろう9月半ば頃を予定しています。
テキストはこの週末までにはみなさんのもとをお届けします。
Smarcel