Chers amis,
次回のテキストとして Roland Barthes のものを予告していましたが、ちょっと準備が間に合いませんでした。「教室」もしばらくお休みにしている形になっていますが、あらためて、昨年末に出版された Frédéric Worms <<Penser à quelqu'un>> (Flammarion)の書評を読むことにします。
みなさんには、毎回Cciを使ってメールをお送りしていますが、どうしてだか、あるいは当然なのか、送信済みのメールが残りません。みなさんのメールアドレスがわからなくなっています。それで、あらためてみなさんのメールアドレスを下記までお知らせしてもらえますでしょうか。また、Cciを使っても送信履歴の残るやり方をご存知でしたら、是非教えてもらいたいと思っています。
shuheif336@gmail.com
ご面倒をおかけしますが、よろしくお願いします。
Shuhei
***************
ある日おばあさんは彼に言った。「まあ、おまえは恋をしているんだね!」彼の初恋を―目に見える変化、自分自身、他者、世界に対しても、別の存在によって変えられた存在、その別の存在はその場にいないのだけれど―おばあさんは直感で、それをとらえていたのだった。しかしどのようにして?何に、正確に孫の中に、ヴェルレーヌのいうような「恋の炎の下の新しいときめ」のしるしをみてとったのだろうか?どうしておばあさんは、わかったことを口に出したのだろうか?愛情からか、あるいはおせっかいからか、その両方だろうか?この哲学者は、何十年後かに、一見とても平凡なこの昔の場面にたちもどる。彼の意図するところは、自伝ではなくて、「誰かを思う」ということが意味することの分析である。フレデリック・ウォルムスのエッセーを読めば、つまるところ、ひたすら「思う」ということより他は何も表してはいないということがすぐわかる。思いがその形をなすのは、不在の他者に思いを馳せることによってだ。これを確認するに至る道は、有益だがとらえがたい。
***********************************************
思いは他者とともにのみ息づく
祖母はある日彼にこう言った。「お前は恋をしているんだね!」思春期の初めての恋。ある一人の存在によって何らかの変化が彼自身に、他の人々に、世界にもそれが感じられる。彼女はそこにいないというのに。老女には一目でそれが分かった。だが、どんなふうに?ヴェルレーヌはそれを「恋の炎という名の新たな動揺」と言ったようだ。孫のなかのまさしく何にそれを見出したのか? そしてなぜ?また老女は分かっていることを言ったのだろうか?愛情からだろうか?それとも教養があるからなのか?その両方だろうか?その哲学者はまた何世紀も後になって一見何の変哲もないかのような場面に蘇ってくる。著者が取り組んでいるいるのは自叙伝ではない。「誰かを思う」ということの分析なのだ。フレデリック・ウームのこの新しいエッセイを読んですぐに分かるのは、紛れもなくただ「思う」ということだけを言いたいのだということ。そこにいない誰かを思うことが空間を開いてゆく。その状況を導く道筋は有益で繊細である。