アレルギーが治りつつある

2007年01月16日 | 持続可能な社会

 昨日は、朝9時から夕方5時までかけて、聖徳太子「十七条憲法」の講義をしました。

 内容については、すでに書き始めていて休止状態になっている記事をもう間もなく再開しますので、ここでは書きませんが、聞いてくださった方の反応で、とても典型的なものが2つあったのを紹介しておきたいと思います。

 1つは、もっとも初期からのサングラハの会員で現在長崎在住の方が言っておられた、「今日、この講義を聞いて、なぜ岡野さんが一方でスウェーデンに一所懸命になり、もう一方で聖徳太子のことを話すのか、やっとわかりました」という言葉でした。

 聖徳太子の掲げた国家理想は、人間と人間が平和に、お互いがお互いを幸福にしあうような暮らしをすることができ、人間の暮らしと自然の営みが調和しているような、そういう「和の国」日本をつくろうということだった、と私は考えています。

 そして、現代の世界の中で、そういう「和の国」に限りなく近い「緑の福祉国家」を実現しつつあるのがスウェーデンだ、と思うのです。

 だから、私の中では日本の原点ともいうべき聖徳太子「十七条憲法」と「スウェーデン・モデル」はまったく1つのことなのです。

 そしてそれは単に私個人のことではなく、これが1つのことだとわかることで、現在の日本人がどこに向かえばいいのか、大きな合意形成が可能になるのではないか、と私は考えているのです。


 もう1つは、ちょうど折り良く講座のほんの数日前に、九州で私の講義を聞ける機会はないかと問い合わせをくださり、急いでお知らせしたら、早速出かけてくださった方の言葉でした。

 その方は、私の本をそうとうたくさん買って読んで下さっているということでしたが、『聖徳太子『十七条憲法』を読む』を見た時、最初は、「岡野先生ともあろう方が天皇絶対主義を復活させるような本を書くとは」と思われたとのことでした。

 しかし、本を読み、そして改めて講義を聞いて、「そういうことではないんだ、とよくわかりました」と言ってくださったのです。

 聖徳太子→天皇絶対性・軍国主義というアレルギー反応は、かつて私も罹っていた戦後日本人のいわば「精神の自己免疫疾患」です。

 〔自己免疫とはいうまでもありませんが、ほんとうは自分のいのちの一部であるものを「異物」と認識してしまうことです。〕

 これを治さないことには、私たちは健康なエネルギーを取り戻すことができず、前に進むこともできないと思うので、私は誤解を恐れず語ることにしているのですが、こうして少しずつ誤解が解けていくことは、ほんとうにうれしいことです。

 こうして少しずつではあれ、深刻なアレルギーがようやく癒されつつあるようで、希望を感じます。

 原点にあった「和」という国家理想に戻りながら、そこを出発点として前進し、綺麗ごとではなく実際に「美しい国」をみんなでつくりたいものです。



 今日は、連投の後の中日という感じの1日を過ごしました。また、明日は東京で大切な用事です。



↓お手数ですが、是非、2つともクリックしてメッセージの伝達にご協力ください。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 哲学ブログへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする