第一条から第三条までで、日本の目指すべき理想「和」が宣言され、それを妨げる無明の心と党派心が指摘され、その曲がった心を正すには仏教が必要であることが示され、民とすべての生き物を庇護し支えることこそリーダーの使命であると語られ、憲法のもっとも重要なポイントが語られていました。
第四条は、それを実現する上でのリーダーのあり方について語っています。要するに「模範を示す」という、ある意味では当たり前の話です。
人間は、生まれつきいい(適応的で倫理的で幸福になれる)生き方ができるような本々の能力(つまり「本能」)をもっておらず、教えられてはじめていい生き方を身につけることができる生き物です。
すでにいい生き方ができている人に模範・手本を示してもらってその真似をする――「学ぶ」は語源的に「真似ぶ」から来ていることはご存知のとおりです――ことによって、ちゃんとよく生きていけるようになるのです。
そういう人間の本質からして、大人・リーダーの責任は重大です。第四条は、そういうリーダーの模範を示す責任について語っています。
四に曰く、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ。それ民を治むる本は、かならず礼にあり。上、礼なきときは、下、斉(ととのお)らず。下、礼なきときは、かならず罪あり。ここをもって、群臣礼あるときは、位次乱れず。百姓(ひゃくせい)礼あるときは、国家おのずから治まる。
第四条 もろもろの貴族・官吏は、礼法を根本とせよ。そもそも民を治める根本は礼法にあるからである。上に礼法がなければ、下も秩序が調わない。下に礼法がなければ、かならず犯罪が起こる。こういうわけで、もろもろの官吏に礼法がある時は、社会秩序は乱れない。もろもろの民に礼法がある時は、国家はおのずから治まるのである。
集団の重要な地位にある人は、法を守ることは当然ですが、まずそれに先立つモラルやエチケットつまり「礼法」を守って、人間としてのいい生き方の模範を示す責任がある、というのです。
人々を治める――これはもちろん支配・搾取・抑圧するという意味ではなく、穏やかに秩序を保って平和に幸福に暮らせるようにするという意味です――には、根本的に生き方の模範を示すことが必要なのです。
上に立つ人が、エチケット、モラル、さらには法にまで違反するようでは、下の人々がちゃんとするはずがありません。
上に立つ人のモラルが乱れていれば、下々は犯罪さえ犯すようになるのです。
しかし上に立つ人が、法律遵守することは当然、それ以上に品格のある行動をして模範を示せば、人々も「ちゃんとした人間はああいうふうに生きるものなのだ」と、それに倣って秩序を守るようになる、というのです。
そして人々がエチケットやモラルをちゃんと守るようになれば、まして法律を犯すようなことはなく、強制しなくても自然に国が平和になっていくのだ、と太子は言っています。
まさにそのとおり、話としては当たり前の話ではないでしょうか。
しかし、毎日のニュースを見聞きしていると、日本の上に立つ人たちの多くが、品性のないことをするだけでなく、法律を犯しているという事件がしきりに起こっています。昨日の新聞記事もそうでした。
これでは、「十七条憲法」の精神と真っ逆さま、あまりにも美しくない国ではありませんか。
一日も早く、第四条の当たり前の話・理念が、同時に当たり前の事・現実であるような国になってほしいものです、いや、したいものです、ぜひそうしましょう。
そう思われませんか。
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