わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。
そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである。
(新約聖書「ピリピ人への手紙第3章12節、聖書協会訳」
キリスト教の大伝道者・使徒パウロのことばです。
「キリスト・イエスによって捕らえられている」を、「仏性の内在」と読み換えると仏教の方には理解しやすくなり、コスモロジーを学んだ方には「内なるコスモス」あるいは「コスモスから与えられた潜在的成長可能性」と言い換えるとすんなりわかっていただけるでしょう。
私も、いうまでもなく捕らえようとして追い求めているのであって、「すでにそれを得たとか、すでに完全な者になっている」という錯覚には幸い陥っていません。
しかし、行を続けていると、「キリスト・イエスによって捕らえられている」という事実(恩師の一人滝沢克己先生は「インマヌエルの原事実」と表現しておられました)への確信が確実に深まっていくことを感じています。
捕らえようとしなくても最初から最後まで捕らえられている、抱かれているという事実に心の奥底まで気づいた時が、「大安心(だいあんじん、と読みます)」、絶対他力の境地なのでしょう。
「そこまで行くには、やはり捕らえようという自力我慢の努力が必要なのだ」と、もう一人の恩師秋月龍(りょうみん、みんは王へんに民)老師に教わったことを思い出しました。
何人ものよき師に出会えたことを、しみじみ有難いと思える年齢になってきたようです。
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