我は幻の如く夢の如し

2008年08月19日 | いのちの大切さ

 まだ若いいとこがガンで亡くなり、お別れに行ってきました。

 ちょうど五十歳、本人も「人生五十年か……」と言っていたそうです。

 短いけれど密度の濃い充実した人生を送ったようです。

 しかしやはり、遺された者には、惜しい、悲しい、どうしてこんな若さでという想いがあります。

 死に顔を見ながら、『摩訶般若波羅蜜経』の「幻聴品(げんちょうぼん)」の言葉を思い出していました。


 〔実体としての〕自我は幻のようであり夢のようであり、生きものというのも知る者も見る者もまた幻のようであり夢のようである。……物質的現象は幻のようであり夢のようであり、感受、想念、意思、思考は幻のようであり夢のようであり、眼から意識に至る接触という因縁から生まれる感受は幻のようであり夢のようであり、布施という修行から智慧という修行に至るまで幻のようであり夢のようである。……仏道は幻のようであり夢のようである。

 我は幻の如く夢の如し、衆生乃至知者見者も亦幻の如く夢の如し。……色は幻の如く夢の如く、受想行識は幻の如く夢の如し、眼乃至意触因縁生の受は幻の如く夢の如く……檀那波羅蜜乃至般若波羅蜜は幻の如く夢の如し。……仏道は幻の如く夢の如し。


 かたちあるこの身心のいのちが実体ではなく有限であることを、死者から改めて学ばなければならない、と思いました。

 「幻の如く夢の如し」ということが、決して空しいことではなく、だからこそ執着することなく爽やかに生きて爽やかに死ぬことのできる根拠であることを、どのくらい自分自身の坐りとして、生き死にすることができるか。

 帰宅してから、鎮魂の想いを込めて静かに坐禅をしました。




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コメント (4)
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