「クォリティ・オヴ・ライフ」「人生の質」ということを考える時に、もう一つ忘れてはいけないと思うのは、そもそも「人生」というのは有限だということです。
これはいつもくどいくらい言うことだけど、嫌でも、嫌なんだけど、人生は有限なんだよね。
ぼくらに貸し与えられる人生の時間には限りがあって、人生には必ず死という終わりがある。
生は生だけで成り立っていない、生まれる前があり、死んだ後がある。
そのことを仏教の人たちはよく自覚していて、「人生」とは言わないで「生死(しょうじ)」と言ってるよね。
すぐに「クライ」とか言って聞きたがらない若者が多いけど、聞きたくても聞きたくなくても、これは事実だからね。
だから、「人生の質」というのは、よく生きるかどうかということだけではなく、よく死ぬかどうかということも含まれていないと、ほんとうのものにならない、と思うんだよね。
そういう意味では、「人生の質」というより「生死の質」と言ったほうが正確かもしれない。
確かに楽だったしそこそこ楽しかったかもしれないけど、死ぬ時になって――直前まで意識があって死ぬ場合のことで、事故であっという間に死んでしまうとか、ひどい認知症になった場合は別だけどね――「オレの人生、なんだったんだろう?」と思う結果になるような生き方と「私の人生はこれでよかった」と満足できるような生き方の、どちらが質が高いと思う?
「満足できるような生き方です。」
そうだよね、もちろん。
人生の最期になって、自分で自分の人生を振り返ったとき、「これでよかった」と納得できるようなのがいい人生・質の高い人生だと思うんだよね。
楽で、楽しくて、自分勝手なことをやっていて、そういう生き方ができると思う?
もしかすると例外的にできちゃう人もいるかもしれないけど、たぶんたいていできないよねえ。
特に、「あの人がいてくれてよかった」「あの人に会えただけでも生まれてきてよかった」というふうに人から思ってもらえるくらいでないと、なかなか自分の人生を「これでよかった」とは思えないと思うんだけどね。
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●人生の最期になって、「これでよかった」と納得できるようなのがいい人生・質の高い人生だ。
「生きるための職業は魂の生活と一致するものを選ぶこと」という理想の選択が出来ませんでしたが、仕事人生を終わってから魂の生活を始めたおかげで、このまま行けば臨終の時には、俺の人生これでよかったといえるような感じがしだしております。
正聞・正思のご精進、心より賞賛申し上げます。
そのまま行けばご臨終に際し納得して死を受容することがおできになる、と予測-予祝申し上げます。
お伝えしている私がうろたえることのないよう、私も油断なく精進していきます。
ご一緒に学びを持続しましょう。
ウッカリするとすぐに退歩する危険があるようですから、正思の精進を続けます。