まだ若いいとこがガンで亡くなり、お別れに行ってきました。
ちょうど五十歳、本人も「人生五十年か……」と言っていたそうです。
短いけれど密度の濃い充実した人生を送ったようです。
しかしやはり、遺された者には、惜しい、悲しい、どうしてこんな若さでという想いがあります。
死に顔を見ながら、『摩訶般若波羅蜜経』の「幻聴品(げんちょうぼん)」の言葉を思い出していました。
〔実体としての〕自我は幻のようであり夢のようであり、生きものというのも知る者も見る者もまた幻のようであり夢のようである。……物質的現象は幻のようであり夢のようであり、感受、想念、意思、思考は幻のようであり夢のようであり、眼から意識に至る接触という因縁から生まれる感受は幻のようであり夢のようであり、布施という修行から智慧という修行に至るまで幻のようであり夢のようである。……仏道は幻のようであり夢のようである。
我は幻の如く夢の如し、衆生乃至知者見者も亦幻の如く夢の如し。……色は幻の如く夢の如く、受想行識は幻の如く夢の如し、眼乃至意触因縁生の受は幻の如く夢の如く……檀那波羅蜜乃至般若波羅蜜は幻の如く夢の如し。……仏道は幻の如く夢の如し。
かたちあるこの身心のいのちが実体ではなく有限であることを、死者から改めて学ばなければならない、と思いました。
「幻の如く夢の如し」ということが、決して空しいことではなく、だからこそ執着することなく爽やかに生きて爽やかに死ぬことのできる根拠であることを、どのくらい自分自身の坐りとして、生き死にすることができるか。
帰宅してから、鎮魂の想いを込めて静かに坐禅をしました。

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こちらでもお久しぶりです。
50歳という若さでお亡くなりになったとのこと、
お会いしたことはありませんが、とても残念に思います。
ご冥福をお祈りいたします。
人生は有限であること。
この命、私という存在は一つの現象であること。
日々の生活、人生の礎にしたいと思っていることですが、
いつも、いつの間にか忘れてしまいます。
でも、だからこそ、学び続けていく必要があるのですよね。
大切な人との別れも、ただ悲しいだけではなく、学びの基となり、
より深い人生を送る助けとなることをまた一つ学べました。
ひさしぶり、時々は会わないとさみしいですね。
死者はその死によって、遺された者に思い出と教えを残してくれます。
かたちは消えても、つながっていくものがあるんですね。
人生が有限であることを自覚すればするほど、美しく生きることができるのではないかと思います。
ぜひ、一緒に学び続けましょう。
ご冥福をお祈りいたします。
まだまだお若く本当にもったいない限りですが、
いきどおりと同時に、「人生は有限である」ということを強く思い出させて頂きました。
人は、ともすると日々の忙しさに流されて、
自分の表層の感情に流されて、
本来の道を見失いがちになります。
光陰矢のごとし、月日はあっという間に過ぎ去ります。・・・振り返れば幻のように。
でも、過去のどの一瞬も、二度と帰ってこないかけがえの無い時間です。今のこの一瞬も。
だからこそ、悔いの残らないよう、今自分に出来ることを精一杯取り組んでいきたいと思いました。
ご無沙汰していますが、元気なようでなによりです。
現代の日本はある意味でいえば、分別知=無明がシステム化された社会ですから、それに流されるということは、分別知の限界を超えられないというか、分別知に埋没するということですね。
ぜひ、縁起の理法にいつも気づいている(正念)ように心がけながら、一所懸命生きましょう。