「比較をやめて、自分自身に事実としてある能力や長所をしっかりと認めれば、事実そのものはゆらぐことはありませんから、気持ちもゆるがないはずです」といいました。
これがしっかり実行できたら、かなりの程度「本当の自信」が身についてきたはずです。
しかしこれは、原理はシンプルでも実際にはそれほどやさしくないと感じる方もかなりの割合でいるようです。
それには主に2つの理由があるのではないでしょうか。
まず第1は、競争社会に生まれ育ってまわりからあまりにも比較ばかりされてきたため、頑固な癖になっていて、なかなか比較をやめられない人が少なくないということです。
しかしある程度の年齢になると、人間はだんだん自律性が高まってきますので、比較されることによってつけられた比較する癖に気づいたら、自分の意思で直す、あるいは別のよりよい癖をつけ直すことができるのです。
よりよいものの見方が癖になるには、かなり意識的な繰り返しが必要です。
意識的な繰り返しの努力が必要です。
努力しないで癖が直せるといいのですが、そういう安易で便利な方法は残念ながら私は知りません。
しかし努力すれば直せるというだけでも有り難いことだ、と私は思うのですが、いかがでしょうか?
次に第2は、人間は生まれる時から父母との関係の中で生まれるのであって、自分で自分を生むことはできませんし、かなりの年齢になるまでは自分で自分を育てることもできないので、他者と関係なく自分の心を形成することはできないということです。
父母などまわりの人から、ありのままの自分を認めてもらうことができず、親から見ていい子であるとか、能力があるとかいう条件づきでしか認められたことがないという人がたくさんいます。
そしてさらに、まわりの要求する条件がなかったので、ほとんど認められなかったという残念な幼少期を過ごした人も少なくありません。
他者からありのままの自分を認めてもらうという体験なしに、自分だけでありのままの自分を認めるというのは、幼い時にはほとんど誰にもできません。
したがって、まわりに認めてもらえなかったので、自分を認められないまま・自信のないまま大人になったという人もかなり多いようです。
しかし、非常に幸いなことに人間はある程度の年齢になると、自分だけでありのままの自分を認めようという意識的な決断をし、努力をすることもできるのです。
「誰が認めなくても、私は私自身を認めるんだ!」と。
そうはいっても自信を持って生きていくには、他者からの承認もできるだけあったほうがいいに決まっています。
ここが決定的なポイントですが、ある程度の年齢になりちゃんと方法を学んだら、私たちは他者からの承認を勝ち取ることも十分に可能なのです。
ただし、それには考え方の大転換が必要です。
私たちは、子どもの頃はまず人から認められる・愛されることを求めますし、それは自然なことです。
しかし、大人になったら、まず人を認める・愛することを先にすることもできるのです。
私は、若者たちに、「これは、大人の鉄則です。人から認められたいのなら、まず人を認めなさい。愛されたかったら、まず愛しなさい」と伝えます。
「人を認める」というと、「どうすればいいんだろう」と思う人もいるようです。
それは、まず簡単なことから始まると思います。
人に会った時、相手を認めていれば、当然、挨拶をするでしょう?
それから、おそらく笑顔を向けるでしょう?
時には話しかけるでしょうし、相手の話を聞くでしょう。
好意や関心を示す言葉をかけたり、相手が話したがっていることをちゃんと聞くでしょう。
相手が何を望んでいるかに気を配り、できるだけ希望に沿うよう努力するでしょう。
こうしたことを自分の方から先にするように心がけると、私の経験では7、8割の人がちゃんと応えてくれます。
挨拶には挨拶、笑顔には笑顔、言葉には言葉、行為には行為……。
話をよく聞いてあげた相手は、こちらの話も聞いてくれます――ただし、これはちょっと割合が減りますけどね……。一方的に話すばかりの人もいますので。
そして、それは覚悟しておいたほうがいいのは、してあげても、して返さない人も、一定の割合ではいるということです。
しかし、幸いにしてちゃんと返す人の割合のほうが多いようです。
だとしたら、大人になったら、人が認めてくれるのを待っていないで、こちらから人を認める言動を能動的にしていくことです。
そうすると、かなりの頻度と程度で、相手もこちらを認める言動をしてくれるものです。
こういう、認めることによって認められるという体験を重ねていると、だんだん「私は人から認められている」という感じを得ることができます。
そして、自分で自分を認めることと人から認められることが繰り返されていくうちに、次第にゆるぎなき本当の自信が育っていくのです。
さあ、ここで判断と決断をしましょう。
子どものように、すねたり、ふてくされたり、落ち込んだりしながら、人が認めてくれて自信をつけてくれるのを待っているのと、大人になって、意識的・能動的に自分で自分を認め、人を認め、そして人からも認められるように行動していくのと、どちらが「本当の自信」への近道でしょうか?
そして、あなたは、どちらの道を選択しますか?
判断し、決断するのは、あなたです。
人気blogランキングへ
他人から認められることは、サラリーマンにとっては大変に有効です。がいいことばかりではないこともじじつです。
私は敗戦のドサクサの生活を体験したからかもしれませんが、自分はどんなことがあっても生き抜く自信がある。泥を食ってでも生きるという覚悟があります。
でも、ちゃんと読んでます!
ところで、
「人から認められたいのなら、まず人を認めなさい。愛されたかったら、まず愛しなさい。」
これって本当だなーと会社の人間関係を見てると、しみじみ感じます。
私を認めて!ということばかりを主張しても、なかなか認めてもらえない。
そして、誰も私を分かってくれない、って塞ぎ込んでしまう。
そういう悪循環を止めるのは、学びによる気付きと、決断、そして努力ですね。
ここで改めて学べたことに感謝し、私は、他人を認められる人になりたいと思います♪
今回の、『認められたかったら認めよう』という内容、私なりに重く受け止めています。
これができたらすごいですよね。
でも、私にはとてもできそうにない・・・。
山の頂上をながめてため息をついているような気持ちです。途方もないことのように思えます。
私の中であまりに大きな問題なので、昨日まで悩んでいたことが吹っ飛んでしまいました。
でも、これができたら、きっとすべてが変わるんじゃないかな、という感じがしています。
少しずつでも、自分なりに向き合ってみようと思います。
「子どものように、すねたり、ふてくされたり、落ち込んだりしながら、人が認めてくれて自信をつけてくれるのを待っているのと、大人になって、意識的・能動的に自分で自分を認め、人を認め、そして人からも認められるように行動していくのと、どちらが「本当の自信」への近道でしょうか?」と書かれると、返事は決まっていますが、どんなに努力を払っても、こちらから好意を示しても、無視されたり嫌がらせをされたりして、落ち込むことは「子供のよう」なんでしょうか。自分は無意味な自信がある方なのであれなんですが、残念ながら、今日の記事を読んで少しがっかりしました。
心理学の専門家でも、臨床経験がないと薄っぺらになっちゃうのかなって。
大変失礼しました。
「泥を食ってでも生きるという覚悟」 すごいですねえ。
そのたくましさ 見習いたいと思います。
>サトミさん
気づけて良かったですね。 応援します。
>hasumiさん
「山の頂上をながめてためいきをついている」気持ち、よくわかります。 でも、いったんわかってみれば とっても簡単なことなんですよ。
「私にはとてもできそうにない」と思っているうちはまだ遠いかもしれないけれど・・・。
でもでも、到達できる時はきっと来ます。これは断言できます。
応援していますよ。
>marronさん
「子どものように」という形容詞は どちらかというと「すねたり、ふてくされたり」にかかるのだと私は思いますが。
先生は「落ち込むことが 子どものようだ」と言われているんじゃ
ないんじゃないかな?
marronさんが このあたりに強く反応したということは、marronさんにとってのキーはこのあたりにあるということのような気がする。
まあまあ、そう早計に決めつけたりしないで この講座とは気長に
じっくりつきあって行きませんか。
厳しい体験を通過して強靭な心を形成してこられたこと、心から敬意を表します。戦後生まれの世代にはない強さですね。
食べる心配があまりなくて、そこそこに生きてこられた私たちの世代は、人間としての生命力がやや不足しているのかなと思います。
>サトミさん
いつもいい学びをしてくれて、有難う。いい教え子を持つと、教師していてよかったなと実感します。
お互いに、さらに学びを深めていきましょう。「学びはいったん始まると終わることはないのだよ」(クリシュナムルティ)。
>hasmi さん
「山の頂上をながめてため息をついているような気持ち」、とてもよくわかります。確かに心が疲れている時に、こんなこといわれても、「大変だなあ」と思いますよね。
どうぞ、無理はしないでください。心の疲労回復は、ゆっくりと取り組む必要があるようですから。
「でも、これができたら、きっとすべてが変わるんじゃないかな」という気づき、すばらしいと思います。
実をいうと、私も完全にできているわけではないのですが、できた範囲で人生がより生きやすく楽しく変わってきています。
「少しずつでも、自分なりに向き合ってみようと思います」という決心も、本当にすばらしい!
無理をしないで、できることから少しずつトライしてみてください。きっと少しずつ前進できると思います。
hasmi さんには、2回のコメントだけでも、まじめさ、探究心、直観力、理解力、自己表現力、持続力……などなどすばらしい長所があることはすぐにわかりました。いいですねえ。
ですから、きっと、できると思います。
>marron さん
率直な感想有難うございます。
せっかく続けて読んでくださっていたようなのに、がっかりさせてしまったようで、残念ですが。
「どんなに努力を払っても……落ち込むことは「子供のよう」なんでしょうか。」というご質問、お気持ちはよくわかります。そういう体験は、私にもありますから。本当にがっかりというか、残念というか、何とも悲しいですよね。
かつて、こちらはとても大事に思っている人からひどく誤解されて憎まれて、どうにも落ち込んでいる時に、エリス『どんなことがあっても自分をみじめにしないためには』(川島書店)という本に出会いました。
万能の心理療法というのはたぶんないので、すべての人に合うとは思いませんが、これは私にはとてもよく効きました。
「論理療法」というアメリカ発の心理療法の1種です。認知療法にかなり似ていますが、私にはこちらがよかったようです。
学びながら、「うーん、ほんとにしんどいけど、大人になるしかないんだな」と思ったことでした。
でも、おかげで大人になる方法を教わり、少し気持ちが大人になってきたら、かなり気持ちが軽くなりました。
それ以来、がんばって学んで、学んだ成果をまとめて、『唯識と論理療法』(佼成出版社)という本も書きました。
上記2冊、もしかしたら、参考になるかもしれません。よかったら、読んでみてください。
>わたくしごとさん
トラックバック記事を拝見しました。本当に大変ですね。
でも、わたくしごとさんは、とてもエネルギーのある方のようですから、きっとご自分の到達したいところに到達できると思います。
心から、ご健闘をお祈りします。
>marron さん、わたくしごとさん
よかったら、ネット授業、もう少し続けてみてください。多少の参考にはなると思います。
>Unknown さん
適切なコメント有難うございます。ぜひ、気長にお付き合いください
そこにキーがあるかぁ。そんな気がします。
岡野先生
2冊の本、さっそく探してみます。ちょっと体調の悪いときに見に来たタイミングが悪かったのかもしれません。失礼なこと書きました。
体調のいいときに、じっくり読み込ませて頂きます。
こちらのコメント欄に書かれている(反応されている)方々は
もうすでに先生がおっしゃっていることは重々承知で
きっかけ、確認、に過ぎないように感じます。
一言で「努力」といいますが、反応を示してる方々は
この「努力」を理解してるんだと思います。
「努力」が何か分からない人達ほどもがき苦しんでいると思います。
「人を愛する事」や「人を認める事」って努力する事なんでしょうか?自分はなにもせず、ただただ、周りを愛し認めればいつか自分も認められる訳ではないですよね?
最後の判断(?)決断(?)も両極端過ぎていまいちピンときません。反応ある人はこの辺「分かっている事」なのでピンときて、よし、明日も頑張ろう!となるんでしょうが。前者を選んだ人がまるでダメ人間のような描写ですよね・・・
うまくまとまりません。通りすがりなのに長文すいませんでした。
ここで言われている「努力」とは、今までの自分のものの見方の癖を直す「努力」のことですよ。癖がついているのだから、それを直すには「意識的」でなければならない、ということを言われているのだと思います。 考え方の大転換を提案されているのです。
「人を愛する努力をせよ」「人を認める努力をせよ」と言われているのではありません。
書かれていることを冷静に読み取ることと、もうひとつは自分の内面性の中心というかルーツの部分に深く降りてみること、この両方をためしてみるといいのではないでしょうか。どちらも必要です。
5個目の投稿は私です。署名を忘れてしまいました。すみません。