般若経典のエッセンスを語る31

2020年10月31日 | 仏教・宗教

 ところで、拙訳では玄奘訳にしたがって「有情」という訳語を使っているが、サンスクリット原語は「サットヴァ」で、一般的には「衆生」と訳され、「群生(ぐんじょう)」と訳されることもあり、日本語としては「生きとし生けるもの」と訳されることが多い。

 先にも述べたように大乗の菩薩の基本的な実践項目を「六波羅蜜」といい、その第一が有情・衆生に対する「布施」である(以下、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧についても述べられていく)。

 布施の一般的な解説としては、財施・物質的な施しと法施・真理の教えの施しと無畏施・畏れのない心・安心の施しがあるとされるのだが、この誓願では、まず何よりも身に迫った飢え渇きを癒し、そして清潔な衣服と暖かい寝具を調えるという具体的なことがあげられている。

 それらがない有情・生きとし生けるものを見た時、菩薩は「どうしたらこの貧しさから救ってあげられるだろう」と考え、「なんとしても救ってあげたい」と思い、「渾身の努力をし身命を顧みず」布施を実践するのだという。ただ、衣服や寝具があげられているから、具体的にはまず人々が対象ということだろう。

 ともかく、ここまでは、まちがいなくすばらしい志ではあるが、一般的な菩薩のイメージとしては当然のことで特に驚くような話ではないし、他の宗教における慈善や直接宗教に関わらないヒューマニズム的な福祉とそれほど違わない。

 しかし、違うのは、できるだけ・ある程度までというのではなく、もろもろ・すべての人々、さらには心ある生き物・有情すべてが、天界の天人たちのような最高の「種々のすばらしい生活の糧が受けられるようにしよう」という極端なまでの徹底性である。

 それを実現するためには、ただ特定の菩薩が特定の有情に一時的かつ部分的にいわば「私にできることをできるだけ」というふうに布施を行なうだけでは不十分である。有情の住んでいる所そのものの全体が完全に「生きるために必要なものが欠乏」することのない豊かな所にならなければならない。

 住むものすべて、一人残らず、一匹残らず、豊かで幸せなところ、それが「仏国土」であり、菩薩は「仏の国土を美しく創りあげ速やかに完成させ」ること、つまり仏国土建設を目指すのだという。

 「仏国土」のサンスクリット原語は「ブッダ・クシェトラ」で、仏・覚った人の住むところ・領分といった意味である。

 そして菩薩は、やがて必ず覚って仏になる存在なので、すでにある他の仏の国土に行くのではなく、自らが覚り自らが創り出す「我が仏国土」なのである。

 しかも、自らが覚るだけでは、覚った人々の国・仏国土は完成しない。構成員すべてが、人間として成熟していて自己中心的な貪欲から解放されていなければ、富の偏在や不公平感からくる争いはなくならない。

 だから、人々をも成熟させ一緒に覚り一緒に仏国土を創っていこうというのである。

 それも「いつの日にか」といった悠長な気持ちではなく、「速やかに……一刻も早く」という想いで「身命を顧みず」「渾身の努力」をするのだという。

 このきわめて強い決心の言葉は、第一願だけではなく第三十一願までそれぞれの願ごとに繰り返し繰り返し語られている。

 ということは、菩薩が最終的に目指すのは仏国土の建設であって、それぞれの願はいわば仏国土の全体的プランの三十一分の一の要素だ、と捉えることができるだろう。

 学びが『般若心経』や『金剛般若経』にとどまらず、『摩訶般若波羅蜜経』さらには『大般若経』まで広がり深まっていく中で、筆者にとって喜ばしい驚きだったのは、菩薩は、個人的な救済活動だけでなく、有情の住む所全体を仏国土にし一人残らず最高の幸せにするといういわば社会変革運動をも志すのだ、と般若経典にはっきり記されていたことだった。

 初期の大乗経典に属すると言われる『維摩経』にも仏国土というコンセプトはあるが、それはかなり理念的なものだった。

 ところが、いわばもっとも中核的な大乗経典である般若経典にも「仏国土」が語られていて、しかも『維摩経』と異なり、その全体像がきわめて具体的に語られていたことが、「般若経典にはこんなことまで、こんなところまで書かれていたのか」という大きな驚きだったのである。

 こうした菩薩の誓願の強さ・深さは、原漢文で味わうといっそうよく感じられると思われるので、第一願だけでも、書き下し原文をあげておこう。

 

 爾(こ)の時仏、具寿善現(ぐじゅぜんげん)に告げて言(のたま)はく、善現、菩薩・摩訶薩有りて布施波羅蜜多を修行し諸の有情の飢渇(きかつ)に逼(せま)られ衣服弊壊(えぶくへいえ)し臥具乏少(がぐぼうしょう)なるを見ば、善現、是の菩薩・摩訶薩は此の事を見己って是の思惟(しゆい)を作す、我れ当に云何が是(こ)の如き諸の有情類を救済(ぐさい)して樫貪(けんどん)を離れ乏少(ぼうしょう)なる所無からしむべきと。既に思惟し己って是の願を作して言はく、我れ当に精勤(しょうごん)して身命を顧ず布施波羅蜜多を修行して有情を成熟し仏土を厳浄(ごんじょう)し速に円満して疾(と)く無上正等菩提を証し我が仏土の中(うち)是の如き資具乏少の諸の有情類無きを得ること四大王衆天(しだいしゅてん)・三十三天8さんじゅうさんてん)・夜摩天(やまてん)・覩史多天(としたてん)・楽変化天(らくへんげてん)・他化自在天(たけじざいてん)の種種上妙(じょうみょう)の楽具(らくぐ)を受用するが如く我が仏土の中の有情も亦た爾(しか)なり種種上妙の楽具を受用せしむべしと。善現、是の菩薩・摩訶薩は此の布施波羅蜜多に由りて速に円満するを得て無上正等菩提に隣近(りんごん)す。


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