私たちは、唯識の理論を学んだり、坐禅をしたりし始めてからしばらくすると、なんだか大して得るものがないような気がしてくることがあります。
「こんなことをやって、どんな効果があるのだろう」と。
実践的な効果のことを仏教用語で「功徳」といいますが、功徳への疑問が生まれるのです。
そういう疑問に対して、梁の武帝に対して達磨さんが答えた「無功徳」という答えは、実にさっぱりと徹底していて、いかにも禅という感じで、かつてはとても好きでした。
そして、「仏教はこうでなくては」とも思ったものです。
ところが、唯識を学び、特に『摂大乗論』を学ぶと、以下のような波羅蜜の功徳について述べたところがちゃんとあります。
もろもろの波羅蜜の功徳はどのようなものだと知るべきであろうか。
もし菩薩が生死輪廻するとしても、大いなる富を思いどおりにできる。
大いなる人生を送ることができる。
大いなる親族や家来を得る。
大いなる生活の糧の事業が成就する。
病気や悩みがなく、少欲でありうる。
一切の技術的な智慧を得る。
思いどおりであり、富を失うことなく、衆生を利益することをなすべきこととするので、菩薩の六波羅蜜を修行する功徳は、究極の清らかな悟りに悟入するまで、常にあって変わることがないからである。
(摂大乗論第四章より)
アサンガ菩薩によれば、六つの波羅蜜の実践によって、いろいろすばらしい功徳が得られるといいます。
その中には「大いなる富を思いどおりにできる」というのまであるのですから、学びはじめたころ、仏教は禁欲主義・清貧主義であるはずだと思っていた私には驚きでもあり、やや反発も感じました。
それから、これは初心者に修行させるための方便(の嘘)であって、本心ではないのではないかとも考えました。
しかし、読みが深まっていくにつれて、そうではないことに気づきました。
ここでの「大いなる富を思いどおりにできる」の「思い」はマナ識の思いではなく、菩薩の思いであり、自分自身については「少欲」であるにもかかわらず、「富を失うことなく、衆生を利益することをなすべきこととする」布施の思いなのです。
たくさんなければ、たくさんの衆生に施すことはできません。
「大いなる生活の糧の事業が成就す」れば、食うに困る心配は、当然なくなります。
食うには困らない、自分の欲は適当で大きくない、けれども大いなる富はある。
だとすれば、思いどおりに使える富を使って、大きな欲・願という意味での思いどおりに衆生に利益を与えることができる。
その上、病気や悩みがなく、すてきな仲間や協力者がいっぱいいて、あらゆるテクノロジーを駆使できる。
これが、ほんとうの「ビッグな生活」ではないでしょうか。
摂大乗論によれば、大乗の菩薩の目指すものは、ささやかで清らかな生活というより、こういう「大いなる人生を送る」ことです。
例えば良寛さまのような清貧の生き方もすばらしいと思いますが、こちらのほうがより「大乗」的だと思われます。
筆者―サングラハも、そういう路線で、いわば「いいことをして豊かになる。豊かになって、もっといいことをする」ような事業を目指したいと思いながら努力を続けていますし、そういう「ビッグな生き方」をする人がたくさん現われてくることで、社会―世界が変わることを期待しています。
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