第八回に夢の話を書きました。
その時は迷いという悪い夢から覚める話でしたが、今回は積極的にいい夢を見ようという話です。
私たちふつうの人間は、すぐ完全に夢から覚めることはできませんから、どうせ見るならいい夢を見たほうがいいわけです。
それに、悪い夢よりいい夢を見た後のほうが、すっきり目を覚ますことができます。
そこで、いい気分で、ほどほどの時間に目を覚ませるように、その前にいい夢を見ておくのも悪くありません。
唯識では、私たちがいい意味での夢=「さまざまな願い」をもつことを否定していません。
そういう意味では、「禁欲主義」ではないのです。
それどころか、「瞑想修行する人は、願いを実現することができる」といっています。
瞑想修行する人は、さまざまな願いと見方を成立させることができる。
〔瞑想修行する人があるいは自分の自由さを完成するために、あるいは他の人を誘って正しい教えを受けさせたいと欲して願うならば、さまざまな変化の願いはみな成就しうる。もし願が成就するならば、自分の見方も他者の見方も願ったようにみな成就しうる。〕
(『摂大乗論現代語訳』七一~七二頁)
種々の願と及び見とを、観行の人は能く成ず。
〔勧行の人、或は自の自在を成せんが為に、或は他を引いて正教を受けしめんと欲するが故に願ひ、種々の願を成ずることを得。若し願、己に成ずれば、自見他見は所願の如く亦皆成ずることを得。〕
(国訳一切経『摂大乗論釈』真諦訳、大東出版社、一〇二頁)
といっても、もちろん人間にとって当然の、あるいは許される「願」と、歪んだ、自他に害のある欲望は違います。
「観行」で「成ず」るのは「願」であって、「貪(むさぼり)」ではありません。
でも、自分がほんとうに自由に、爽やかに生きたいという欲求と、まわりの人にもそういういい考え方、いい生き方を伝えたいという願いなら実現するというのです。
アサンガ菩薩もそういっておられますし、私も全面賛成ですが、生き方の基本として、欲望を抑えようとするより、欲望の奥にある自然な欲求を回復するほうがいい。それから自利利他の高次の欲求を追求する。
いわば〈生命欲〉の全面的解放を目指したいと思います。
厳しい時代になってきたからといって、変にちぢこまったりしないで、のびのびと生きたいものです。
人生は、マナ識的な自分の思いどおりになるわけではありませんが、自分の思いが宇宙と共振したときには、思いは実現するといわれています。
宇宙が実現してくれるというのです。
そういう意味で「いい」夢を描くと、夢は実現します。
やすらかに眠る時のようにリラックスして、宇宙に全心身を任せて、子どもが欲しいもののことを夢に見ながら寝言をいうように、心の奥底からの願いをいえば、宇宙は聴いていて、いちばんいい時にかなえてくれる……ようです。
ただし、子どもがどんなに欲しがる一見いいものでも、結局は害になるものを親は与えないように、結局はためにならないことは、宇宙はかなえてくれないようです。
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