広島の平和記念式典に寄せて

2008年08月06日 | 持続可能な社会

 今朝、テレビで広島の平和記念式典を見ました。

 今年も一分間黙祷を奉げました。

 小学低学年の頃に学校で見せられて見た原爆映画(おそらく『原爆の子』)から受けたショックが、私の思想的営みの一つの決定的な原点です。

 それだけに、広島への想いは複雑で、行かなければと思いつつ、とうとう去年まで原爆ドームに直面する勇気がありませんでした。

 去年、記念日の前日、ようやく行って、ドームの前で般若心経を唱えることができました。

 なんとかして、なんとしてでも、「人間と人間の平和、人間と自然の調和を」というのが、50年以上変わることのない私の志であることを、今日も再確認しました。

 広島市長秋葉忠利氏「平和宣言」が感動的でした。

 まだ秋葉氏のことを十分に知らない、イメージの話ですが、「こういう人を国政レベルのリーダーへと押し上げたい」と強く思いました。

 ところで、明日、もう一人、知人が「この人を総理大臣にしたい」と言っている、地方自治体のリーダーにお目にかかってきます。

 私が知らないだけで、日本にはまだまだ人材がいるようです。とてもうれしいことです。

 そうした方たちと大きな連帯を形成したい、と願っています。




↓参考になったら、お手数ですが、ぜひ2つともクリックしてメッセージの伝達にご協力ください。

にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日のことば 15: 捕らえようとして追い求めている

2008年08月05日 | 生きる意味

 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。

 そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである。

                          (新約聖書「ピリピ人への手紙第3章12節、聖書協会訳」


 キリスト教の大伝道者・使徒パウロのことばです。

 「キリスト・イエスによって捕らえられている」を、「仏性の内在」と読み換えると仏教の方には理解しやすくなり、コスモロジーを学んだ方には「内なるコスモス」あるいは「コスモスから与えられた潜在的成長可能性」と言い換えるとすんなりわかっていただけるでしょう。

 私も、いうまでもなく捕らえようとして追い求めているのであって、「すでにそれを得たとか、すでに完全な者になっている」という錯覚には幸い陥っていません。

 しかし、行を続けていると、「キリスト・イエスによって捕らえられている」という事実(恩師の一人滝沢克己先生は「インマヌエルの原事実」と表現しておられました)への確信が確実に深まっていくことを感じています。

 捕らえようとしなくても最初から最後まで捕らえられている、抱かれているという事実に心の奥底まで気づいた時が、「大安心(だいあんじん、と読みます)」、絶対他力の境地なのでしょう。

 「そこまで行くには、やはり捕らえようという自力我慢の努力が必要なのだ」と、もう一人の恩師秋月龍(りょうみん、みんは王へんに民)老師に教わったことを思い出しました。

 何人ものよき師に出会えたことを、しみじみ有難いと思える年齢になってきたようです。



↓参考になったら、お手数ですが、ぜひ2つともクリックしてメッセージの伝達にご協力ください。

にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日のことば 14: からだまで元気にしてくれることば

2008年08月04日 | メンタル・ヘルス

 ここちよい言葉は蜂蜜のように、

 魂に甘く、からだを健やかにする。

                        (旧約聖書『箴言(しんげん)』第26章24節、聖書協会訳)


 菩薩の行なう修行の6項目・六波羅蜜に布施というのがあり、そのもっとも初歩的でどんなに財産がなくてもその気になればだれでもできそうな――実際にはなかなかできないのですが――「無財の七施」というのがあります。

 その第二に「言辞施(ごんじせ)」つまりやさしい言葉をかけるというのがあり、なるべく実行したいと心がけています。

 ついきつすぎる親父の説教をしたり、それどころか思わずマナ識から意地悪な言葉が出てきたりしがちなので。

 確かに、やさしい言葉は、まるで蜂蜜のように甘くここちよく、心の奥底にまで沁み、魂はもちろんですが、からだまで元気にしてくれます。

 身心に生きるエネルギーをもらえます。

 自分がそう感じているのなら、人にもそうしてあげられるといい、と思うのですが、まだまだ、なかなかです。

 (しかし、「まだまだは、ダメだということではなく、これから成長できるということだ」と若者を励ましているように、自分をも励ますことにします)。

 心はもちろん、からだまで元気にしてあげられるような言葉を語れる人間になりたい!




↓参考になったら、お手数ですが、ぜひ2つともクリックしてメッセージの伝達にご協力ください。

にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ



 


 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日のことば 13: 夏に涼風有り

2008年08月03日 | メンタル・ヘルス

 午後、暑い日盛りに出かけて採点表を宅急便で送りました。

 夏休みになってもちっと休めない期末の大課題が、やっと終わったー!という感じです。

 といっても、この夏は『仏教とアドラー心理学』というタイトルで一冊書下ろしをしなければならないので、暇にはならないのですが、それでも一区切りがつくとほっとします。

 明日は、雑誌のインタビューを受け、それから秋から3コマも増えてしまう授業のシラバスを書き、何よりもサングラハ第100号記念の原稿をまとめなければなりません(←あ、これは「条件付must」です、念のため)。

 暑さにまいっている暇がなさそうです。

 
 そこで、今日はゆったりとした心を取り戻すヒントになることばを、自分のために引用することにしました。

 あまりにも有名な禅の古典『無門関』の第17則は、唐代の禅僧南泉(なんぜん)和尚の「平常心是道(びょうじょうしん これ どう)」という言葉の出てくる箇所ですが、そのエピソードに編者無門慧開(むもんえかい)の付けた頌(じゅ、詩句)です。


 春に花有り秋に月有り 夏に涼風有り冬に雪有り

 若し閑事(かんじ)の心頭(しんとう)に挂(か)かる無くんば 便ち是れ人間(じんかん)の好時節(こうじせつ)


 前半は解説の必要はないでしょう。

 このことばは、気づけば、四季折々に爽やかなもの、美しいものあることを思い出させてくれます。

 それに眼を向けて、閑事つまりつまらないことを、心頭つまり意識の表面にひっかけさえしなければ、その時、その時が人間として生きることのできるすばらしい時だ、というのです。

 そういう毎日毎日を生きることのすばらしさに気づいている心のことを「平常心」といいます。

 一般に理解されている、「平常心(へいじょうしん)」、何かある時に平静さを保てる心というのとは、ちょっとニュアンスがちがいます。

 そういう平常心(びょうじょうしん)で生きることが、道そのもの、真理そのものだ、と『無門関』は語っています。

 エックハルトの言葉と響き合っている、と思われませんか。



無門関 (岩波文庫)

岩波書店

このアイテムの詳細を見る



無門関を読む (講談社学術文庫)
秋月 龍ミン
講談社

このアイテムの詳細を見る

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日のことば 12: なぜという問なしに生きる

2008年08月02日 | 生きる意味

 午後、大阪の講義から帰ってきました。

 少しだけ昼寝してから、がんばって採点の出席簿への転記を終わりました。これで、明日成績表に転記して送れば、大きな一仕事の完了です。

 ブログには何を書こうと思っていて、マイスター・エックハルト(13~4世紀のキリスト教神秘主義の代表的な思想家)のことばを思い出しました



 だれかが命に向かって千年もの間、「あなたはなぜ生きるのか」と問いつづけるとしても、もし命が答えることができるならば、「わたしは生きるがゆえに生きる」という以外答はないであろう。

 それは、命が命自身の根底から生き、自分自身から豊かに湧き出でているからである。

 それゆえに、命はそれ自身を生きるまさにそのところにおいて、なぜという問なしに生きるのである。

 もし、だれかが、自分自身の根底から働く、真理を得た人に、「なぜあなたは、このわざをなすのか」と問うならば、これに正しく答えようとすればこの人はこういう他はないであろう。

 「わたしは、働くがゆえに働く」と。

                           (田島照久訳『エックハルト説教集』岩波文庫、40頁)




 いのちの根底から生きるという生き方、いのちの根底から働くという働き方をすると、そこにはもう「なぜ私は生きなければならないんだ? どうして私がこんな面倒なことをしなければならないんだ?」等々といったつまらない問いはまったく消えてしまうのだ、とエックハルトはいっています。

 そういう生き方、そういう働き方をしたいものです。




↓参考になったら、お手数ですが、ぜひ2つともクリックしてメッセージの伝達にご協力ください。

にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ


 

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

希望の星の子たち

2008年08月01日 | 心の教育

 例年以上に時間を取られた採点が終わり、ようやく後は出席簿への転記、成績表への転記という作業――これもそうとうな手間です――が残っているというところまできました。

 しかし、採点しながら次のような学生の変化・成長がわかると、繰り返し「大変だったけどやっぱりやってよかったなあ」という感慨をおぼえます(読みやすくするために改行、読点を加えています)。

                       *

 〔中間レポートの感想〕

 「日本のこと好きですか?」と聞かれたら、私は「はい。」とは言えない。テレビを見ると悪いニュースばかりが流れ決して良い国とは言えないからだ。昔と比べるとやはり日本は腐敗しつつあると感じる。

 しかし、私には何か行動を起こし、世の中を変えようなどという考えは全く頭になかった。そして、そのような考えがない自分に対して嫌悪感を感じることもなかった。毎日、自分のことだけを考えることがあたり前だと思っていた。

 しかし、この授業で私の理想が死んでいること、自分がエゴイズムの塊であることに気づかされた。自分が腐敗した人間であること、また腐敗していることに18になるまで気づかなかったことが、私にとってとても衝撃的だった。そして、今まで何も疑問を感じることのなかった自分の軽薄な生き方や、考えに不信感を感じるようになった。

 正直、初回の授業では先生の言葉に反感を持っていた。しかし、授業を受ける度に、先生が正しいことしか言っていないということを実感するようになった。

 以前授業でも言っていたように、先生の授業は「説教」に近いと感じる。そして説教の後は、自分の人間性に毎回へこんでいる私がいる。帰りの電車で今までの自分に対して1人反省会をすることが私の1週間の楽しみになっている。

 これからもこの授業を通して様々な衝撃を受けることを期待している。


 〔期末テストの感想〕

 私は、この授業を受け、自己認識しはじめていると思う。

 今まで何も考えていなかった自然や隣の人も皆自分と同じで宇宙の一体となっていると感じると、環境のことや、周りの人のことを真剣に考えたいという気に初めてなった。

 自分が感情を持って生まれてきて、宇宙のこと、環境のこと、人について感動できる、(自己感動)ができること、宇宙の一部であることは本当にうれしいと感じました。

                        *

 若者のみずみずしい自己反省能力、成長能力に、感動と大きな期待を感じています。

 2大学で800名以上の受講生のもちろんすべてではありませんが、10人や20人でない人数がわずか4ヶ月で変わってくれるのです。

 こうした若者たちがいるかぎり、まだまだ日本に失望、絶望するのは早すぎる、と改めて勇気づけられています。

 成長してくれている教え子たち、希望をくれて有難う! きみたちは、まぎれもなく「希望の星の子」です!!



↓参考になったら、お手数ですが、ぜひ2つともクリックしてメッセージの伝達にご協力ください。

にほんブログ村 哲学ブログへ

人気blogランキングへ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする