ふわり・舞う・毎日

気持ちに余裕がないと、心の泉が枯れちゃうもんね。

ドキュメント0401~その6

2009年04月14日 | 極私的記録
「その6 援護射撃」

自分たちの間に赤ちゃんが生まれる時、父親となる人には、立会いとまでは言わなくても「生まれた!」の声が届く範囲には居て欲しい。

妊娠する前から、それだけは譲れない気持ちとして持っていた私。
だから、里帰り出産という選択肢は最初から存在しなかった。
そうでなくても私の実家は北海道外にある。
飛行機で帰るような場所。
里帰り出産を選んでしまったら、おいそれとは飛んで来られない距離、穂和と赤ちゃんが対面できるのはいつになるかわからない。

自分の住む札幌で出産をする。
出産する場所には、それ以上のこだわりはなかった。
産院として選んだ勤医協札幌病院も、土曜の診察があって皮膚科(私のアトピーを診察してもらうため)と小児科がある総合病院、という理由で出会っただけだった。
私が診察を受け始めた昨年の夏には、勤医協札幌病院にはLDRはなく、昔ながらの陣痛室と分娩室が別々の形だったらしい。
けれども年明けに改装が行われ、1月末からLDRとなった。

「生まれた」の声の届く範囲に、との願いは、生まれたての子供と対面することで「お父さん」を実感して欲しいという気持ちがあってのことだった。
結果的には、LDRに居てもらうことで助けられたのは私の方だった。

長い長い陣痛の時間。
寝不足のために、ソファーで窮屈そうに仮眠を取る穂和。
起きていてくれてもまともな会話のできない私としては、たとえ夢うつつでもそこに穂和が存在してくれることだけで心強かった。
明るくてきれいな病室に、自分ひとりでぽつんと置き去りにされてただ痛みとひたすら戦うだけだったとしたら、気持ちが続かなかったと思う。

「男なんざ、いざ出産となったら何もできないからさ」
そう言いつつ、陣痛に苦しむ私の腰や背中をさすり、声をかけてくれ、手を握っていてくれた。
手の甲に深い爪の跡を残しても、痛いと文句も言わずに。
いきむ時には一緒に力を込めてくれた。

もう投げ出してしまえたらいいのに、と自棄にも近い気分になりながらも最後まで頑張れたのは、そこに同じ気持ちで戦ってくれた穂和がいたからこそ、だ。
同じように手を握ってくれていたお義母さんにも、もちろん感謝。

「お父さん」をいち早く実感して欲しい、なんて偉そうなことを考えてごめんなさい。
居てくれて、ありがとう。
これからも一緒に、子育てしていこうね。


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その2 いざ入院へ」へ
その3 LDRの長い一日の始まり」へ
その4 まだ続くLDR生活」へ
その5 ようやく出産へ」へ
その後 入院生活編」へ


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