「従軍慰安婦」の強制性について、2007年3月30日号「週刊金曜日」投稿欄。
本多立太郎氏(93)の投稿は、永井荷風の日記『断腸亭日乗』を引用している。
昭和13年8月8日、水天宮裏の待合叶家の主婦の話。要約すると、
「この春、軍部の人の勧めで、北京に料理屋兼旅館を開くつもりで、売春婦を三、四十人募集したが、妙齢の女は来なかった。また北京に将校の遊び場を作るには少なくとも2万円を要するが、軍部は1万円を融通してやるからぜひ若い士官を相手にする女を募集せよと言ってきたが、北支の気候あまりに悪しきゆえ辞退した。女郎屋を開くため軍部の周旋で家屋を見に行ったところは、旧29軍将校の宿泊した家であった」。
主婦はなお売春婦を送ることにつき、軍部と内地警察署との連絡その他のことを語った。
事実を淡々とつづった荷風の日記によっても、当時の軍部、警察の連携により、慰安所が作られていく経緯がわかる、
投稿者の本多氏は、元皇軍兵士。自身の戦争体験を持って、学校などに出前講座をつい最近まで行っていたが、高齢のためその活動から身を引いた。
松代の朝鮮人女性がいたという「慰安所」も、家主の児沢氏の証言では、警察や軍関係者が何度と無く訪れて、渋る児沢家を説得して、朝鮮人の春山を名乗る業者に慰安所の経営に当たらせたという真相が『松代で何があったか』で語られている。
戦後60年の時間は、戦争の記憶と証人の消滅と重なってもいる。
それに乗じて、「戦争を正義のもの、やむをえないもの」にしてしまいたい勢力が、言いがかり、例えば、軍部の関与を証明する文書が無い、などと、子供が駄々をこねるような言い分で正当化しようとしているのが、今日の「慰安婦問題」であり、「沖縄集団自決」だ。
こうした表で堂々とすすめられない事については、こっそりと、できるだけ文書など出さずに実行するというのが、官でも民でも軍でも常識ではないか。
たとえ、文書があっても、敗戦によりいちはやく処分したであろうと考えるのがこれまた常識だ。