「従軍慰安婦」に続いて、「沖縄の集団自決」に対しても、軍の強制は無かったという、これまた「負の歴史の消滅」をはかる作業が、高校の歴史教科書で行われてしまったが、これに関して、先週、フジテレビ系の報道2001で討論がされていた。
軍の強制、あり、なしで3対3で分かれて意見を述べていたが、まずは、一方的に「軍の強制」はなかったの論客だけを呼んで、ということではなかったのは、フジテレビらしくなくて、聞いてみる気にさせた。
「沖縄の集団自決」に関しては、沖縄の人々が、明治以来、日本に組み入れられた時から、一段低い日本人として差別的立場におかれた、ということを前提として知っていないと、自決に追い込まれた人々の心情を理解することはできない。
差別されていることがよくわかっているから、より日本国の皇民として、忠誠心を示さなくてはならない心理に追い込み、また追い込まれた。
これもまた「従軍慰安婦」の構図と同じで、文書や口頭で、命令した、ということではないかもしれないが、それを盾に、「強制は無かった」ということはできない。
「心理的強制」ということが、この世の中には山ほどある。
「世界史未履修」で、責任を感じて自殺してしまった校長さんなどは、誰にも死んで責任を取れ、とは言われていない。それでもそういう状況に追い込まれた。
集団自決に追い込まれた沖縄住民は、最後の時のために手榴弾を渡されていた。暗黙の強要だ。
まったくもって、不可解なのは、そのように住民に「皇民としての覚悟」を求めながら、日本軍の幹部や兵士の大方は、沖縄の人のようには自決しなかったことだ。
青年達に、特攻をすすめながら、自身は戦後の天寿を全うした軍の幹部も多い。
明治以来の他国への侵略戦争を擁護する人たちは、こうした上層部へいくほど「恥を知らない」、「責任を取らない」行動を取る構図をどう思っているのか。
「集団自決」に軍の強要はなかった、の論客たちは、敗戦時、まだ幼児だったか、せいぜい少年ぐらいの年令の人たちだが(これはその反対者も同様)、家族や親戚に「戦争の犠牲者」はいなかったのだろうか。
自分が同じひどい目に遭ってはじめて「ああ、わかった」という、「想像することを拒否する人たち」だと思った。
沖縄は独自の文化と歴史を持っている。
島の名前は忘れたが、「集団自決の生き残り」の老婦人の証言は、字幕なしでは、その言葉はまったく理解不能だった。
中国や東南アジアにより近い沖縄。沖縄は沖縄に戻るのが本当は一番いいのかもしれない。