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あみものと手仕事と旅の記録

line、または線を引くことについて

2009-03-24 21:05:14 | ほん
読書メモ(のようなもの)シリーズ。
なにをもってして人間の行動と特性の“正常”と“異常”の線引きをするのか。それを考えることに広がりをもたせてくれたのが、以下の3冊。

『博士と狂人―世界最高の辞書OEDの誕生秘話』
(S.ウィンチェスター 著、鈴木主税 訳、早川書房、1999年)
★★★★ ここ2年近く、英書の翻訳プロジェクトにかかわっていて、辞書への関心が高くなってたときに読んだ本。超人的な知力と集中力でもって、キング・オブ・ザ辞書“オックスフォード英語大辞典”の編纂にたずさわった、ある天才の“格闘”の話。
 登場人物たちの個性的なキャラクターも魅力的だし、植民地支配と言語の関係なども理解できて、知的好奇心そそられる内容でした。それと、ただの歴史物語におわらず、リアリティある史実を語ることに成功しているという点も非常によかった。それを可能にしているのは、行間からひしひしと伝わってくる、著者の、緻密さ、繊細さ、粘り強さ(これらはすべて辞書の編纂に必要不可欠な要素に共通する)をもって本書の取材と執筆に向かっている姿勢だと思う。
 そもそも不可能だと思われたOEDの作成は、ある殺人事件がきっかけとなって完成をみることとなったのだけど、著者は、そうした陰の面を最初から最後まで置き去りにすることがない。つまり、OEDの完成という偉業は偉業として評価するけれども、その一方で殺人事件の被害者の無念とその遺族の悲しみを決して忘れてはならないのだということを繰り返し述べることによって、人間の命への敬意をつらぬき続けている。このことが、もっとも印象に残っていることかもしれない。おそらく、こうした真摯な姿勢でいたからこそ、著者に、これまで非公開とされていた貴重な資料にアクセスすることが許されたり、諦めかけていた記録を入手することができたのではないかなあと思います。
 “異常”と診断される精神状態かかえた主人公の人生をとおして、人としての尊厳をもって生きること、そのことを周囲がどのようにして支えることができるのか、必要とされることは何なのかを考えさせられたという点でも、期待していた以上に収穫のあった1冊でした。

“科学的にみてふつうでない”と判断/診断することと、ひとの内的な幸福感との従来的な両立のさせ方への懐疑を提示してるのが、

『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』
(S.A.クランシー 著、林雅代 訳、2006年、早川書房)
★★★ なんだかフザケたタイトルだけど、内容は大まじめな科学ノンフィクション。“宇宙人に誘拐された”と主張する人たちが、そのように“思い込む”のはなぜなのか。そのメカニズム(記憶形成過程)を解明するための科学的な実験の結果をまとめたもの。巻末解説にもあるのだけど、読み物としてのおもしろさだけでなく、「エイリアンに誘拐されるなんて、ありえない」と切り捨てることよりも、そのように訴える彼/彼女たちの内面に真摯に向き合ったことを選んだ著者の科学者としての成長の過程がとてもリアルに伝わってきて、さわやかといってもいいくらいの読後感をもちました。まあ、結論については、賛否両論あると思いますが。

小説というかたちで、「ノーマル」であることと、そうでないこと、ひとがありのままでいることが与える自由とある種の苦しさみたいなものを扱っているのが、

『くらやみの速さはどれくらい』
(E.ムーン 著、小尾芙佐 訳、2004年、早川書房)
★★★★ 自閉症が完治する近未来を舞台に、“最後の自閉症者ルウ”の内面を繊細な筆致で描いています。“お話”としての展開は丁寧に、かつ無理なくテンポ良くすすめられていくのだけど、ルウの心の内にぴったり寄り添ったことばのひとつひとつに打ちのめされてしまって、なかなか読み進めずにいます。“21世紀版『アルジャーノンに花束を』”と評されているらしい。ピンときた方は手にとってみてください。

と、気づいてみたら、早川書房の本ばっかり。奥付のさらにあとの「宣伝ページ」みたいなところから読む本を選ぶと、こういう“ライン”ができちゃうのは必然の結果ですね~