文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

平野神社…2012/4/15.昼。

2012年04月16日 06時39分16秒 | 日記

そんな訳で、平野神社の事は全く無関心で来たのだったが、京都の桜開花状況に、必ず出て来る名前だから、当然、私の関心を惹いた。



2012/4/15、平野神社にて。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王安石…ウィキペディアから。

2012年04月16日 06時24分41秒 | 日記
文中黒字化は芥川。

王 安石(おう あんせき、ピンイン:Wáng Ānshí 、天禧5年(1021年) - 元祐元年(1086年))は、北宋の政治家・詩人・文章家。

字は介甫、号は半山。撫州臨川(江西省撫州市)の人。新法党のリーダー。神宗の政治顧問となり、制置三司条例司を設置して新法を実施し、政治改革に乗り出す。文章家としても有名で、仁宗に上奏した「万言書」は名文として称えられ、唐宋八大家の一人に数えられる。

また詩人としても有名である。儒教史上、新学(荊公新学)の創始者であり、『周礼』『詩経』『書経』に対する注釈書『三経新義』を作り、学官に立てた。


略歴

地方官時代

王安石の父・王益は地方官止まりの官僚で、王安石の家は家族が多く、豊かでなかった。1042年(慶暦2年)、22歳の時に4位で進士となる。その後は地方官を歴任する。

1058年(嘉祐3年)、王安石は政治改革を訴える上奏文を出して、大きく注目された。後に王安石と激しい論戦を繰り広げる事になる司馬光らもこの時期には王安石を賞賛する声を送っていた。この声を受けて1067年(熙寧2年)、神宗に一地方官から皇帝の側近たる翰林学士に抜擢され、更に1069年には副宰相となり、政治改革にあたることになる。

新法

王安石は若手の官僚を集めて制置三司条例司と言う組織を作り、改革を推し進めた。1070年(熙寧5年)には主席宰相となり、本格的に改革を始める。新法の具体的な内容に関しては新法・旧法の争いを参照のこと。王安石の新法の特徴は大商人・大地主達の利益を制限して中小の農民・商人たちの保護をすると同時に、その制度の中で政府も利益を上げると言う所にある。

失脚

まず1074年(熙寧7年)に河北で大干ばつが起こったことを「これは新法に対する天の怒りである。」と上奏され、これに乗った皇太后・宦官・官僚の強い反対により神宗も王安石を解任せざるを得なくなり、王安石は地方へと左遷された。

新法派には王安石以外には人材を欠いており、王安石の後を継いで新法を推し進めていた呂恵卿などは権力欲が強く、新法派内部での分裂を招いた。翌年に王安石は復職するが、息子の死もあり王安石の気力は尽きて1076年(熙寧9年)に辞職し、翌年に致仕(引退)して隠棲した。

1085年に神宗が死去し、翌年には王安石も死去する。神宗が死ぬと新法に大反対であった皇太后により司馬光が宰相となり、一気に新法を廃止するが、間もなく司馬光も死去する。

王安石・司馬光の両巨頭亡き後の新法と旧法の争いは醜い党争に堕し、どちらかの派閥が勝利する毎に法律も一新されることが繰り返され、大きな政治混乱を生むことになる。この政治混乱が北宋滅亡の大きな原因とされる。

文学

王安石は文学者としても優れており、その作品は『臨川集』にまとめられている。散文家としては「唐宋八大家」の一人に数えられ、代表作としては前述の「万言書」や「孟嘗君伝を読む」などがあげられる。

詩人としては用語・構成ともに入念に考え抜かれ、典故を巧みに用いた知的で精緻な作風が特徴である。

特に七言絶句は北宋第一とされ、欧陽脩や蘇軾のような旧法党の人々からも高い評価を得ていた。また先人の詩句を集め、そのイメージを受け継いだり変化させたりすることによって新しい詩を作るという手法(集句)に強い関心を示したが、これは黄庭堅に代表される江西詩派の主張する「換骨奪胎法」にと受け継がれることになった。

なお、「紅一点」の由来として王安石の作とされる詩が挙げられる。

すなわち、 「石榴」の「万緑叢中一点紅 、人を動かす春色は須く多かるべからず」という句である。もっとも、現行本の『臨川集』には確認できず、一説には唐人の作ともされる。

…http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AE%89%E7%9F%B3から。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正法眼蔵…醍醐寺にて。2012/4/12.

2012年04月16日 06時20分57秒 | 日記

2012/4/12、醍醐寺にて。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

拈華微笑…ウィキペディアから。

2012年04月16日 06時13分27秒 | 日記

黒字化は私。

拈華微笑(ねんげみしょう)とは、禅宗において禅の法脈を釈尊から受け継いだとされる伝説のこと。

概略

インドの霊鷲山(グリドラクータ)上で釈尊が黙って華を拈(ひね)ったところ、大衆はその意味を理解することができなかったが、迦葉尊者だけがその意味を理解して破顔微笑したため、迦葉に禅の法門を伝えたという伝説である。

聯燈会要・釈迦牟尼仏章には世尊在霊山会上。拈華示衆。衆皆黙然。唯迦葉破顔微笑。世尊云。吾有正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門、不立文字、教外別伝。付属摩訶迦葉」とある。

また大梵天王問仏決疑経にも「正法眼蔵・涅槃妙心、微妙(みみょう)法門あり、文字を立てず教外に別伝して迦葉に付属す」とある。

この伝説は、経論律の三蔵には説かれておらず、禅宗興隆当時に他宗の教判やその実証に対抗するために案出されたものとされ、唐の徳宗の末頃に金陵の沙門である慧炬が寶林傳を撰して、この伝説を記述し、その宗を誇大にしたことから始まるといわれる。

宋代以降に人天眼目、無門関、五燈会元、廣燈録、聯燈会要などにこの伝説が記載されるようになり、宋の王安石はこの事は大梵天王問仏決疑経に出典されると述べている。


…http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%88%E8%8F%AF%E5%BE%AE%E7%AC%91から。後略。



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

拈華微笑(ねんげみしょう)…醍醐寺にて。2012/4/12.

2012年04月16日 06時08分18秒 | 日記

読者の方は御存知の様に、私は、紅葉の美しさを通して、京都を再々々発見したのであって、桜を通してではなかった。

それで、これほど頻繁な京都行に於いて、桜は、対象外となっていた。(苦笑)

今年は、言うまでもなく、桜を通して、京都の春に拈華微笑(ねんげみしょう)しているのである。

例えば、以下の絵は、醍醐寺に拈華微笑している方でなければ、どこの場所かは決して分からないでしょう。

大げさに言えば奇跡の様な二葉の絵なのである。





2012/4/12、醍醐寺にて。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする