お待ち申しておりましたぞ。
2012/4/15、等持院にて。
皆さま方の多くもそうではないだろうかと思う。
文中黒字化は私。
等持院(とうじいん)は、京都府京都市北区にある臨済宗天龍寺派の寺院。山号は万年山。足利尊氏の墓所としても知られる。
歴史
尊氏は暦応4年(1341年)に現在の京都市中京区柳馬場御池付近に等持寺を建立し、その2年後の康永2年(1343年)、現在の京都市北区等持院北町に別院北等持寺を建立したとされている。
ところが、異説として暦応元年(1338年)頃に尊氏の弟である足利直義が古先印元を開山として建立したとする説が出されている。これは、南北朝時代の公家の日記である『師守記』(暦応2年9月1日条)には武衛(左兵衛督=足利直義)が坊門三条殿の等持院で父足利貞氏追善の法華八講を主催したことが記されていることによる。
当時等持院の隣地には直義の三条坊門殿があり、等持院も元は直義が一門のために建てた持仏堂であったと推定する考えである。
康永元年(1342年)頃に等持院が諸山に叙せられた際に寺号も等持寺と定められたという。また法勝寺の恵鎮(円観)が等持寺にて足利直義に『太平記』を見せられたという逸話(『難太平記』)も当時の等持院が直義ゆかりの寺院であったと示すとされている。
なお、後に直義は観応の擾乱によって滅亡し、坊門三条殿は尊氏の嫡男足利義詮の邸宅になり、等持院も義詮が管理するところとなった。
直義建立説によれば、一連の戦乱で等持寺も大きな被害を受けたために尊氏は同寺を足利氏の菩提寺に相応しいものに大改築を行っているが、その際に寺伝を改竄して開山を夢窓疎石とするとともに、等持院における直義と古先印元の事績を抹殺したとしている。
尊氏の死後、別院北等持寺は尊氏の墓所となり、その名前を「等持院」と改称した。その後、応仁の乱で柳馬場の本寺が焼失したため、別院だった現在の等持院が本寺になった。
作家の水上勉は小坊主としてこの寺に寄宿していた。その当時の住職は栂道節で、京都商業学校(現京都学園高等学校)野球部にいた沢村栄治を東京巨人軍専務取締役市岡忠男に紹介した。
…後略。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%89%E6%8C%81%E9%99%A2から。
平野神社も、まだまだ、ご紹介したい絵はあるのじゃが、これでは、昨日の、本当の主役、いよ、日本一、まで今日中にたどり着きませぬ。
そこで平野神社は、またいつか、として、流石、足利尊氏の墓所であり、その庭は、私には格別の人物である夢想国師の作であることは…だから行こうと思ったのだから…伊達では無かった等持院。
桜湯…それも100円と言うリーズナブルな価格だった。お正月に立ち寄った六波羅蜜寺の、ぼったくりの様な350円の梅茶に比べれば、数倍、数十倍の値打ちが有った。(笑)
何よりも、このお茶は美味いのである。この桜の花びらが美味いのである。
去年、宇治平等院の池で、水面に浮かぶ花びらを鯉が食べるのを見たのだった。
あの鯉に成った様な気分で、初めて、このようにして桜の花びらを食べたのだったが、これが美味いのである。
その触感といい。もう一杯、所望したくなったほど。
さぁさ、皆さま方よ、読書じゃ、購読、功徳、御購読。本屋に急がれい。「文明のターンテーブル」、を読まずして、21世紀は語れぬぞ。
「我こそは菅原道真公の生まれ変わり也。我が寿命を全うさせ給え。わが命尽きるまで、この国を糾させ給へ…。」
1億2千万超の日本人が居る訳だが、平野神社に行って、粛々と列を待ち、上記の様な祈りを捧げる者は一人もいないであろう。
さぁさ、皆々様方、購読、功徳、御購読。本屋に走りましょうぞ。
2012/4/15、平野神社にて。
どんちゃん騒ぎの場所だけで、桜の名所にはなるまい、確か北野天満宮とも関係が深かったはず、と、ずんずん入って行けば。
さぁさ、皆の衆、私の、「文明のターンテーブル」、を御購読、功徳、御購読。(笑)
2012/4/15、平野神社にて。
平野神社というのは、川の無い場所で、花見を繰り広げる、入った瞬間には、そう感じたほど屋台と花見床の間を歩いて行く場所だったのである。
神社前の西大路通りから左大文字が大きく見えていた。
入った途端に、桜の乱舞。
2012/4/15、平野神社にて。
そして、昨日、当初の予定では、未だ一度も訪れていない宇治神神社…世界遺産である…を観て、もう一度、宇治川・中之島公園を訪れ、中村藤十衛で抹茶ソフトクリームを食べ(笑)それから、この平野神社~等持院~仁和寺・庭園~桜のトンネル~嵐山という行程で行こうと決めていたのだったが。
2012/4/12、宇治川・中之島公園にて。