表通りのレストランでステーキを頼むと、コルホーズで使役しきった牛だったのだろう、靴底のような肉が出てきて筋張っていてナイフが通らなかった。
2019年11月06日
以下は月刊誌WiLL今月号に「たたかうエピクロス」題して連載されている古田博司氏の論文からである。
第5回、ソ連邦滅亡の黙示的預言
苦痛を減らして快楽を増やす
1979年、完全雇用のはずのソ連の裏街で、失業者の畜群と職安の広告を見てしまった私は、全く途方に暮れてしまった。
「例えばロシアのボルシェヴィキ政府が、社会主義に失業はあってはならないというイデオロギー的要素を貫徹するために取った方法は、明白な失業の事実をプロパガンダで欺いて失業者はいないと言いくるめるのではなく、プロパガンダなどを全然使わずに失業給付を一切廃止してしまうという方法だった」(『全体主義の起源』第3巻、みすず書房、1981年、64頁)と、ハンナ・アーレントの訳書が教えてくれるのだが、それは数年後のことだった。
その時点ではそんなことは知らない。
騙されたという怒りが広がるのもずっと後のことである。快楽主義者の私がとった方法は、まずロシア語の勉強を一撃で棄て、忘れ去ることであった。
不幸な者には、大切な万人幸福への夢想よりも、当面の苦痛を生む可能性のあるものを減らすことが急がれた。
もちろん勿体ないなどとは露ほども思わなかった。
じつは以上の説明も後のものだ。
当時は「本能的に危険を回避する」のが、自分の体質なのだと直観的に思っていた。
マルクス経済学という「学」もこのとき同時に捨てた。
ソ連経済の欺瞞とマルクス経済学がどのような関係にあるかまだ分からなかったが、何かしらの因果関係でこれらすべてが虚構だと瞬時に知れたので、「ペンに塗られた毒がまわる前に」、まず解毒することにしたのである。
ところがこれが鶴見俊輔のいう、「転向」のような役割を果たした。
以後、西洋人の「理論」の何を視ても信じられなくなった。
見ても読んでも目の片端から飛んでいってしまう。
レニングラードに貼られた職安の広告がコンクリートの壁から次々と剥がれて飛んでいくような感覚、薄汚れた失業者の群れの背景にあった細い北欧風サウナの煙突からは、ボーつと幽鬼のような黒い烟(けむり)が立ち上っていた。
私がふたたびそのような不吉な煙突の烟を見るのは、23年後、北朝鮮の清津の火力発電所を訪れたときであった。
茫洋かつ殺伐とした社会主義国
ここで社会主義国の風景について少し記録を残しておこうと思う。
管見ではどこにも書かれていないので、将来着地主義を取ろうとする者が出た時に、視覚映像を結びにくいだろうと思うからである。
社会主義諸都市の景観は、一言でいえば茫洋であり殺伐である。
モスクワの公道など、片道6車線、計12車線もあるのだ。
そこには車が1台も通っていない。
まるで車道が公園のようだったので、私は路の真ん中に立って写真を撮った。
後に眺望主義で分かるのだが、これはマルクス経済学の労働価値説に問題がある。
同経済学では価値を生むのは労働であり、流通は何も生まないと等閑視された。
ゆえに貨物トラックなど走っているわけがないのである。北朝鮮では、労働新聞を日本時代に敷設された鉄道で運び、駅でおろしていた。
さらに街中、偶像と巨大建築物だらけである。
ソ連ではレーニン、北では金日成、アルバニアなどではポシャさんの偶像があちらこちらに建てられた。
キエフ空港のロビーでは、中央に置かれた巨大なレーニンのブロンズの頭部が人々の往来を妨げていた。
茫洋とした表通りの巨大な建物には絵やスローガンが書かれている。
モスクワでは、「我らの誇り、我らの力、我らの権力」「先進的な科学万歳」「共産主義は勝つ」とか、元山では「一片丹心(赤誠)」「速度戦」とか。
建物は密集せず、間がスカスカしている。
それで冬は風が吹き抜けてすごく寒い。
平壌は古代の奈良の平城京のようだなと私は思った。
巨大な東大寺と盧舎那仏、建物がスカスカの街、時が静止したような感覚。
人々は朝の通勤時に建物に吸い込まれるようにしていなくなり、日中は人通りがほとんどない。
裏街は違う。
そこには生活臭がして、子どもたちの声がした。
表通りとは異なり、汚れた壁面、罅割れたガラス窓、職安の広告。
モスクワの裏街では、貧しい青果店の窓辺にまで青々としたウリだけがぎっしりと積まれていた。
これが需要と供給のバランスを知らない人たちが作った八百屋だった。
表通りのレストランでステーキを頼むと、コルホーズで使役しきった牛だったのだろう、靴底のような肉が出てきて筋張っていてナイフが通らなかった。
かわってウクライナは豊かで、サワークリームまで食卓に上った。
それでロシアやドイツに狙われるわけがよく分かった。
一方、北朝鮮の清津で出た牛肉は、七輪に載せるとすぐに溶けて燃えカスになった。
肉自体に栄養分がないのだろう。
社会主義国のトイレはおもしろい。
北の人民大学習堂のトイレは二十畳くらいの広さがあった。
その右端の壁に、ぽつんと一つのアサガオ(小便器)だけが象嵌されていた。
手洗い場には鏡があったが、私の顔よりも上にあった。
飛び上がって見ると、鏡面がゆがんでいて、顔もゆがんだ。
人のために作るという公共性がなく、近代合理性にも欠けていた。
のちに寧辺の核施設を研究した際、施設に電力を供給する泰川発電所とダムが、大寧江というそれはどの急流でもない川に、4つも5つも建てられているのをネットで見た。
近代合理性の欠如にすぐ気づき、思考経験を知覚経験に換えることができた。
冷戦時代の1976年、ソ連軍将校ビィクトル・ペレンコが、M・IG25(フォックスバット)に乗り、日本の函館市に着陸、亡命を求めた事件が起こった。
機体がステンレス製で機器に真空管が多用されていたため西側を大いに驚かせた。
技術革新のないマルクス経済学を普遍の学と信じたことに問題があった。
それに加え、近代合理性の欠如がある。
この3年後、私ははじめてソ連を視た。
だから当時、以上のことが分かるはずがない。
私に分かっていたのは、ソ連邦が必ず滅亡するということだけだった。
この稿続く。
第5回、ソ連邦滅亡の黙示的預言
苦痛を減らして快楽を増やす
1979年、完全雇用のはずのソ連の裏街で、失業者の畜群と職安の広告を見てしまった私は、全く途方に暮れてしまった。
「例えばロシアのボルシェヴィキ政府が、社会主義に失業はあってはならないというイデオロギー的要素を貫徹するために取った方法は、明白な失業の事実をプロパガンダで欺いて失業者はいないと言いくるめるのではなく、プロパガンダなどを全然使わずに失業給付を一切廃止してしまうという方法だった」(『全体主義の起源』第3巻、みすず書房、1981年、64頁)と、ハンナ・アーレントの訳書が教えてくれるのだが、それは数年後のことだった。
その時点ではそんなことは知らない。
騙されたという怒りが広がるのもずっと後のことである。快楽主義者の私がとった方法は、まずロシア語の勉強を一撃で棄て、忘れ去ることであった。
不幸な者には、大切な万人幸福への夢想よりも、当面の苦痛を生む可能性のあるものを減らすことが急がれた。
もちろん勿体ないなどとは露ほども思わなかった。
じつは以上の説明も後のものだ。
当時は「本能的に危険を回避する」のが、自分の体質なのだと直観的に思っていた。
マルクス経済学という「学」もこのとき同時に捨てた。
ソ連経済の欺瞞とマルクス経済学がどのような関係にあるかまだ分からなかったが、何かしらの因果関係でこれらすべてが虚構だと瞬時に知れたので、「ペンに塗られた毒がまわる前に」、まず解毒することにしたのである。
ところがこれが鶴見俊輔のいう、「転向」のような役割を果たした。
以後、西洋人の「理論」の何を視ても信じられなくなった。
見ても読んでも目の片端から飛んでいってしまう。
レニングラードに貼られた職安の広告がコンクリートの壁から次々と剥がれて飛んでいくような感覚、薄汚れた失業者の群れの背景にあった細い北欧風サウナの煙突からは、ボーつと幽鬼のような黒い烟(けむり)が立ち上っていた。
私がふたたびそのような不吉な煙突の烟を見るのは、23年後、北朝鮮の清津の火力発電所を訪れたときであった。
茫洋かつ殺伐とした社会主義国
ここで社会主義国の風景について少し記録を残しておこうと思う。
管見ではどこにも書かれていないので、将来着地主義を取ろうとする者が出た時に、視覚映像を結びにくいだろうと思うからである。
社会主義諸都市の景観は、一言でいえば茫洋であり殺伐である。
モスクワの公道など、片道6車線、計12車線もあるのだ。
そこには車が1台も通っていない。
まるで車道が公園のようだったので、私は路の真ん中に立って写真を撮った。
後に眺望主義で分かるのだが、これはマルクス経済学の労働価値説に問題がある。
同経済学では価値を生むのは労働であり、流通は何も生まないと等閑視された。
ゆえに貨物トラックなど走っているわけがないのである。北朝鮮では、労働新聞を日本時代に敷設された鉄道で運び、駅でおろしていた。
さらに街中、偶像と巨大建築物だらけである。
ソ連ではレーニン、北では金日成、アルバニアなどではポシャさんの偶像があちらこちらに建てられた。
キエフ空港のロビーでは、中央に置かれた巨大なレーニンのブロンズの頭部が人々の往来を妨げていた。
茫洋とした表通りの巨大な建物には絵やスローガンが書かれている。
モスクワでは、「我らの誇り、我らの力、我らの権力」「先進的な科学万歳」「共産主義は勝つ」とか、元山では「一片丹心(赤誠)」「速度戦」とか。
建物は密集せず、間がスカスカしている。
それで冬は風が吹き抜けてすごく寒い。
平壌は古代の奈良の平城京のようだなと私は思った。
巨大な東大寺と盧舎那仏、建物がスカスカの街、時が静止したような感覚。
人々は朝の通勤時に建物に吸い込まれるようにしていなくなり、日中は人通りがほとんどない。
裏街は違う。
そこには生活臭がして、子どもたちの声がした。
表通りとは異なり、汚れた壁面、罅割れたガラス窓、職安の広告。
モスクワの裏街では、貧しい青果店の窓辺にまで青々としたウリだけがぎっしりと積まれていた。
これが需要と供給のバランスを知らない人たちが作った八百屋だった。
表通りのレストランでステーキを頼むと、コルホーズで使役しきった牛だったのだろう、靴底のような肉が出てきて筋張っていてナイフが通らなかった。
かわってウクライナは豊かで、サワークリームまで食卓に上った。
それでロシアやドイツに狙われるわけがよく分かった。
一方、北朝鮮の清津で出た牛肉は、七輪に載せるとすぐに溶けて燃えカスになった。
肉自体に栄養分がないのだろう。
社会主義国のトイレはおもしろい。
北の人民大学習堂のトイレは二十畳くらいの広さがあった。
その右端の壁に、ぽつんと一つのアサガオ(小便器)だけが象嵌されていた。
手洗い場には鏡があったが、私の顔よりも上にあった。
飛び上がって見ると、鏡面がゆがんでいて、顔もゆがんだ。
人のために作るという公共性がなく、近代合理性にも欠けていた。
のちに寧辺の核施設を研究した際、施設に電力を供給する泰川発電所とダムが、大寧江というそれはどの急流でもない川に、4つも5つも建てられているのをネットで見た。
近代合理性の欠如にすぐ気づき、思考経験を知覚経験に換えることができた。
冷戦時代の1976年、ソ連軍将校ビィクトル・ペレンコが、M・IG25(フォックスバット)に乗り、日本の函館市に着陸、亡命を求めた事件が起こった。
機体がステンレス製で機器に真空管が多用されていたため西側を大いに驚かせた。
技術革新のないマルクス経済学を普遍の学と信じたことに問題があった。
それに加え、近代合理性の欠如がある。
この3年後、私ははじめてソ連を視た。
だから当時、以上のことが分かるはずがない。
私に分かっていたのは、ソ連邦が必ず滅亡するということだけだった。
この稿続く。