文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

裁判では、日記の多くの記述も「疑問が生じる」と指摘され、「主要な部分を裏付ける証拠はなく、真実と認めることはできない」とされた

2018年09月30日 11時35分41秒 | 日記

本章では慰安婦報道や南京大虐殺報道において…左翼活動家或いは中国や朝鮮半島の工作下にある人間達はどのように嘘をつくのかが以下の裁判記録の中に在る事…

それを私は日本と世界に明瞭に知らせる…日本と世界を正す、それが私の使命だからである。

以下は今しがたネットで発見して初めて知った事実である。
ウィキペディアから。文中強調と*~*は私。
慰安婦問題における吉田清治と同様の、元日本兵で戦後の風潮に乗じて、或いは中国等の工作を受けて南京大虐殺の捏造に加担した元兵士が、やっぱり存在していた事を私は初めて知った。

東 史郎(あずま しろう、1912年(明治45年)4月27日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の軍人(召集兵)、著述家、社会活動家。京都第16師団、福知山第20連隊上等兵として南京攻略戦に参加し、南京大虐殺(南京事件)を著書『わが南京プラトーン』で告発した。中国やアメリカ合衆国などでも謝罪活動を続けた。

日記の記述について元上官と名誉毀損裁判となり、最高裁で東日記の記述は客観的証拠がないと判定され、損害賠償が命じられた[1][2]。
中略
東は訪中するたびに英雄として各地で熱烈歓迎を受けた[19]
中略
教科書に記載された東証言
日本:一橋出版『世界史B』
1993年、笠原十九司は東史郎手記から、兵士の安眠のために農民を殺すのだった、と教科書『世界史B』(一橋出版)に引用した[29]。
『宿営にあたって・・・農民を殺して寝た。・・・襲撃してくるかもしれないから、殺すのだった。・・・』と日本の一兵士は日記に書きのこしている」
— 笠原十九司,一橋出版『世界史B』(平成5年検定)
上杉千年や産経新聞は東日記は詐話(作り話)であり疑わしい資料であるため、教科書での使用は不適であると説いた[30]。板倉由明は東裁判で係争中の本からの引用は問題と抗議し、出版社側は中島今朝吾師団長日記と差し替えた[6]。
カリフォルニア州公立高校での教材として
アメリカでは2015年、カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で東証言が教材として使用された[16]。教材は、1999年から全米で放映されたケーブルテレビ局ヒストリー・チャンネルの「ザ・センチュリー/アメリカズ・タイム」で、その番組のなかで東は、戦争当時中国人女性を見つけると必ず5人で集団レイプし、レイプ後は火をつけて燃やした、と発言していた[16]。
名誉毀損裁判
東の著書で中国人を郵便袋の中に入れて殺害したと証言された元歩兵第20聯隊第3中隊第1分隊長の上官が1993年4月15日、名誉棄損で東史郎、下里正樹、青木書店の三者を東京地裁に提訴した[31][6]。裁判は東裁判(あずまさいばん)とも呼ばれる[24][32]。

原告は板倉由明とも相談し、原告代理人高池勝彦弁護士事務所に「南京事件の虚構を正す会」が置かれた[6]。板倉はこの訴訟を突破口として、 歩20の残虐行為の虚偽を証明して名誉を回復し、さらに、 いわゆる『南京大虐殺』の虚構を明らかにしたいと述べた[33][6]。

判決内容
東京地裁判決
1996年4月、東京地裁1審判決は日記の記述を虚構と認定し、 東ら三者に50万円の支払いを命じた[34][6]。被告は上告。

1審判決では、南京事件については 「多数の捕虜や非戦闘員である中国人が日本兵によって殺害された」の「概ね否定しがたい事実」であると家永教科書裁判判決を踏襲したが、郵便袋事件については、不自然というべきで、客観的証拠はなく、 事実と認めるに足りない、「実行者に危険で、実行可能性がない」と判決された[6]。

原告は法廷で「自分は中国で人を殺したことがない。 強姦もしたことがない。 略奪も死体も見たことがない」と証言した[6]。

東弁護団は「東史郎さんの南京裁判を支える会」を結成し、 名誉毀損に当たらないことを立証するために、郵便袋事件が不自然でもないことを南京での手榴弾再現実験や、水中に人を袋に入れて沈む深さを計る実験などを行ったが、これらの実験結果や現地調査も判決で否定された[6][35]。

高裁(控訴審)判決
控訴審第1回公判は1996年9月26日に開始され、1998年12月22日に東京高等裁判所第7民事部(裁判長奥山興悦、裁判官・杉山正己、佐藤陽一)で控訴棄却の判決が下された[36][37]。

控訴審では、東が戦前に書いたとされる「日記」の現物が裁判所に提出されたが、南京戦に関する部分は「日記」の現物は提出されなかった[38]。東側は「日記」のその部分は、当時「懐中手帳」に書き、それを二、三年後に書き写したと主張したが、その「懐中手帳」は法廷に提出されなかった[39]。さらに、東は、ある展示会に貸出したところ返却されなかったと主張したが、その主張は展示会の責任者によって否定された[40]。

東は、日記は陣中メモ等を後の1940年から1944年3月までに「正確に記録したもの」であると反論した [41]。しかし、判決では、東日記は戦前に書かれたものかどうかも疑問で、 戦後に加筆された可能性もあり、「東の供述は全面的には採用しがたい」 と判定した [42]。また高裁は「1938年(昭和13年)3月以前についての原資料である懐中手帳などは存在しない」と判定し[43]、「控訴人東が具体的な事実を再現して供述することができなかったのは、 本件行為を目撃していなかった、すなわち、 本件行為が実行されていないからと推認せざるを得ない」と判定した[6]。裁判では、日記の多くの記述も「疑問が生じる」と指摘され、「主要な部分を裏付ける証拠はなく、真実と認めることはできない」とされた[16]。
中略
高裁判決後
原告弁護団の高池勝彦弁護士は、この判決によって東氏の書籍自体の信用性がないことが 明らかになった(略)かねがねマスコミや評論家と称する人たちが旧日本軍の非行を暴く場合、 告発者への一方的な取材だけで、それの真偽も検証せず、 その主張するままを記事にしているが本件もその一例で、 東日記が大々的に宣伝され、 多くの新聞やテレヴィでは訴訟中も原告側に対する取材は殆どなかった、として 公平な両当事者からの取材を要求した[10]。

1998年12月22日の高裁判決の報道陣は中国側から北京中央テレビ・江蘇テレビ・南京テレビ・ 香港テレビが取材した[45]。中国のメディアは、 裁判官が13分遅刻して出廷したこと、判決の言い渡しが簡単すぎたこと、原告が記者会見に登場しなかったことに驚愕し憤激を覚えた[10]。さらに、原告側記者会見の際に「南京虐殺捏造裁判勝利」という幕に対して中国報道陣から「この幕は、多くの中国人の心に深い傷をつけるので、取り外してください」「中国人に対しての侮辱だ」と抗議したが、取り外されなかった[10]。会見では南京大虐殺についての質問が相次ぎ、高池勝彦弁護士は「私の個人的見解は捏造だと思いますよ。 戦争ですから日本の兵隊が全く悪いことをしていなかったとは思いません。(略)ただし南京大虐殺はそういうものじゃないでしょ。 例えば殺人3件だったら大虐殺とは言いませんよね」と答えた[46]。 江蘇テレビ局の記者が南京大虐殺を起こしたのは日本だから、日本が証拠を出すべきだと抗議すると、高池は「あったというのなら、 そう主張する方が(証拠を)あげるべき」だと反論した[10]。

*この中国の言い方(プロパガンダ)は、モリカケ報道における朝日やNHKなどの言い方と、或いは泊原発反対活動家たちが持ち出している海陸の何万年前の断層云々の「やくざの言いがかり、伊方原発再稼働反対活動家たちの、阿蘇山が噴火して愛媛県まで火砕流が来る、の「やくざの言いがかり」に、共通なのである。

つまり、彼らは(当然のことながら…それが捏造だから)証拠をだせるわけがないのに、攻撃相手に証拠をだせという、悪魔の証明を、一様に論法として使うのである。

朝日新聞やNHKなどが、中国の工作下にあることは、私の、この章でも明瞭だろう。*
後略。


本件行為を目撃していなかった、すなわち、 本件行為が実行されていないからと推認せざるを得ない」と判定した

2018年09月30日 11時33分12秒 | 日記

本章では慰安婦報道や南京大虐殺報道において…左翼活動家或いは中国や朝鮮半島の工作下にある人間達はどのように嘘をつくのかが以下の裁判記録の中に在る事…

それを私は日本と世界に明瞭に知らせる…日本と世界を正す、それが私の使命だからである。

以下は今しがたネットで発見して初めて知った事実である。
ウィキペディアから。文中強調と*~*は私。
慰安婦問題における吉田清治と同様の、元日本兵で戦後の風潮に乗じて、或いは中国等の工作を受けて南京大虐殺の捏造に加担した元兵士が、やっぱり存在していた事を私は初めて知った。

東 史郎(あずま しろう、1912年(明治45年)4月27日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の軍人(召集兵)、著述家、社会活動家。京都第16師団、福知山第20連隊上等兵として南京攻略戦に参加し、南京大虐殺(南京事件)を著書『わが南京プラトーン』で告発した。中国やアメリカ合衆国などでも謝罪活動を続けた。

日記の記述について元上官と名誉毀損裁判となり、最高裁で東日記の記述は客観的証拠がないと判定され、損害賠償が命じられた[1][2]。
中略
東は訪中するたびに英雄として各地で熱烈歓迎を受けた[19]
中略
教科書に記載された東証言
日本:一橋出版『世界史B』
1993年、笠原十九司は東史郎手記から、兵士の安眠のために農民を殺すのだった、と教科書『世界史B』(一橋出版)に引用した[29]。
『宿営にあたって・・・農民を殺して寝た。・・・襲撃してくるかもしれないから、殺すのだった。・・・』と日本の一兵士は日記に書きのこしている」
— 笠原十九司,一橋出版『世界史B』(平成5年検定)
上杉千年や産経新聞は東日記は詐話(作り話)であり疑わしい資料であるため、教科書での使用は不適であると説いた[30]。板倉由明は東裁判で係争中の本からの引用は問題と抗議し、出版社側は中島今朝吾師団長日記と差し替えた[6]。
カリフォルニア州公立高校での教材として
アメリカでは2015年、カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で東証言が教材として使用された[16]。教材は、1999年から全米で放映されたケーブルテレビ局ヒストリー・チャンネルの「ザ・センチュリー/アメリカズ・タイム」で、その番組のなかで東は、戦争当時中国人女性を見つけると必ず5人で集団レイプし、レイプ後は火をつけて燃やした、と発言していた[16]。
名誉毀損裁判
東の著書で中国人を郵便袋の中に入れて殺害したと証言された元歩兵第20聯隊第3中隊第1分隊長の上官が1993年4月15日、名誉棄損で東史郎、下里正樹、青木書店の三者を東京地裁に提訴した[31][6]。裁判は東裁判(あずまさいばん)とも呼ばれる[24][32]。

原告は板倉由明とも相談し、原告代理人高池勝彦弁護士事務所に「南京事件の虚構を正す会」が置かれた[6]。板倉はこの訴訟を突破口として、 歩20の残虐行為の虚偽を証明して名誉を回復し、さらに、 いわゆる『南京大虐殺』の虚構を明らかにしたいと述べた[33][6]。

判決内容
東京地裁判決
1996年4月、東京地裁1審判決は日記の記述を虚構と認定し、 東ら三者に50万円の支払いを命じた[34][6]。被告は上告。

1審判決では、南京事件については 「多数の捕虜や非戦闘員である中国人が日本兵によって殺害された」の「概ね否定しがたい事実」であると家永教科書裁判判決を踏襲したが、郵便袋事件については、不自然というべきで、客観的証拠はなく、 事実と認めるに足りない、「実行者に危険で、実行可能性がない」と判決された[6]。

原告は法廷で「自分は中国で人を殺したことがない。 強姦もしたことがない。 略奪も死体も見たことがない」と証言した[6]。

東弁護団は「東史郎さんの南京裁判を支える会」を結成し、 名誉毀損に当たらないことを立証するために、郵便袋事件が不自然でもないことを南京での手榴弾再現実験や、水中に人を袋に入れて沈む深さを計る実験などを行ったが、これらの実験結果や現地調査も判決で否定された[6][35]。

高裁(控訴審)判決
控訴審第1回公判は1996年9月26日に開始され、1998年12月22日に東京高等裁判所第7民事部(裁判長奥山興悦、裁判官・杉山正己、佐藤陽一)で控訴棄却の判決が下された[36][37]。

控訴審では、東が戦前に書いたとされる「日記」の現物が裁判所に提出されたが、南京戦に関する部分は「日記」の現物は提出されなかった[38]。東側は「日記」のその部分は、当時「懐中手帳」に書き、それを二、三年後に書き写したと主張したが、その「懐中手帳」は法廷に提出されなかった[39]。さらに、東は、ある展示会に貸出したところ返却されなかったと主張したが、その主張は展示会の責任者によって否定された[40]。

東は、日記は陣中メモ等を後の1940年から1944年3月までに「正確に記録したもの」であると反論した [41]。しかし、判決では、東日記は戦前に書かれたものかどうかも疑問で、 戦後に加筆された可能性もあり、「東の供述は全面的には採用しがたい」 と判定した [42]。また高裁は「1938年(昭和13年)3月以前についての原資料である懐中手帳などは存在しない」と判定し[43]、「控訴人東が具体的な事実を再現して供述することができなかったのは、 本件行為を目撃していなかった、すなわち、 本件行為が実行されていないからと推認せざるを得ない」と判定した[6]。裁判では、日記の多くの記述も「疑問が生じる」と指摘され、「主要な部分を裏付ける証拠はなく、真実と認めることはできない」とされた[16]。
中略
高裁判決後
原告弁護団の高池勝彦弁護士は、この判決によって東氏の書籍自体の信用性がないことが 明らかになった(略)かねがねマスコミや評論家と称する人たちが旧日本軍の非行を暴く場合、 告発者への一方的な取材だけで、それの真偽も検証せず、 その主張するままを記事にしているが本件もその一例で、 東日記が大々的に宣伝され、 多くの新聞やテレヴィでは訴訟中も原告側に対する取材は殆どなかった、として 公平な両当事者からの取材を要求した[10]。

1998年12月22日の高裁判決の報道陣は中国側から北京中央テレビ・江蘇テレビ・南京テレビ・ 香港テレビが取材した[45]。中国のメディアは、 裁判官が13分遅刻して出廷したこと、判決の言い渡しが簡単すぎたこと、原告が記者会見に登場しなかったことに驚愕し憤激を覚えた[10]。さらに、原告側記者会見の際に「南京虐殺捏造裁判勝利」という幕に対して中国報道陣から「この幕は、多くの中国人の心に深い傷をつけるので、取り外してください」「中国人に対しての侮辱だ」と抗議したが、取り外されなかった[10]。会見では南京大虐殺についての質問が相次ぎ、高池勝彦弁護士は「私の個人的見解は捏造だと思いますよ。 戦争ですから日本の兵隊が全く悪いことをしていなかったとは思いません。(略)ただし南京大虐殺はそういうものじゃないでしょ。 例えば殺人3件だったら大虐殺とは言いませんよね」と答えた[46]。 江蘇テレビ局の記者が南京大虐殺を起こしたのは日本だから、日本が証拠を出すべきだと抗議すると、高池は「あったというのなら、 そう主張する方が(証拠を)あげるべき」だと反論した[10]。

*この中国の言い方(プロパガンダ)は、モリカケ報道における朝日やNHKなどの言い方と、或いは泊原発反対活動家たちが持ち出している海陸の何万年前の断層云々の「やくざの言いがかり、伊方原発再稼働反対活動家たちの、阿蘇山が噴火して愛媛県まで火砕流が来る、の「やくざの言いがかり」に、共通なのである。

つまり、彼らは(当然のことながら…それが捏造だから)証拠をだせるわけがないのに、攻撃相手に証拠をだせという、悪魔の証明を、一様に論法として使うのである。

朝日新聞やNHKなどが、中国の工作下にあることは、私の、この章でも明瞭だろう。*
後略。


「控訴人東が具体的な事実を再現して供述することができなかったのは、 本件行為を目撃していなかった、すなわち、

2018年09月30日 11時29分36秒 | 日記

本章では慰安婦報道や南京大虐殺報道において…左翼活動家或いは中国や朝鮮半島の工作下にある人間達はどのように嘘をつくのかが以下の裁判記録の中に在る事…

それを私は日本と世界に明瞭に知らせる…日本と世界を正す、それが私の使命だからである。

以下は今しがたネットで発見して初めて知った事実である。
ウィキペディアから。文中強調と*~*は私。
慰安婦問題における吉田清治と同様の、元日本兵で戦後の風潮に乗じて、或いは中国等の工作を受けて南京大虐殺の捏造に加担した元兵士が、やっぱり存在していた事を私は初めて知った。

東 史郎(あずま しろう、1912年(明治45年)4月27日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の軍人(召集兵)、著述家、社会活動家。京都第16師団、福知山第20連隊上等兵として南京攻略戦に参加し、南京大虐殺(南京事件)を著書『わが南京プラトーン』で告発した。中国やアメリカ合衆国などでも謝罪活動を続けた。

日記の記述について元上官と名誉毀損裁判となり、最高裁で東日記の記述は客観的証拠がないと判定され、損害賠償が命じられた[1][2]。
中略
東は訪中するたびに英雄として各地で熱烈歓迎を受けた[19]
中略
教科書に記載された東証言
日本:一橋出版『世界史B』
1993年、笠原十九司は東史郎手記から、兵士の安眠のために農民を殺すのだった、と教科書『世界史B』(一橋出版)に引用した[29]。
『宿営にあたって・・・農民を殺して寝た。・・・襲撃してくるかもしれないから、殺すのだった。・・・』と日本の一兵士は日記に書きのこしている」
— 笠原十九司,一橋出版『世界史B』(平成5年検定)
上杉千年や産経新聞は東日記は詐話(作り話)であり疑わしい資料であるため、教科書での使用は不適であると説いた[30]。板倉由明は東裁判で係争中の本からの引用は問題と抗議し、出版社側は中島今朝吾師団長日記と差し替えた[6]。
カリフォルニア州公立高校での教材として
アメリカでは2015年、カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で東証言が教材として使用された[16]。教材は、1999年から全米で放映されたケーブルテレビ局ヒストリー・チャンネルの「ザ・センチュリー/アメリカズ・タイム」で、その番組のなかで東は、戦争当時中国人女性を見つけると必ず5人で集団レイプし、レイプ後は火をつけて燃やした、と発言していた[16]。
名誉毀損裁判
東の著書で中国人を郵便袋の中に入れて殺害したと証言された元歩兵第20聯隊第3中隊第1分隊長の上官が1993年4月15日、名誉棄損で東史郎、下里正樹、青木書店の三者を東京地裁に提訴した[31][6]。裁判は東裁判(あずまさいばん)とも呼ばれる[24][32]。

原告は板倉由明とも相談し、原告代理人高池勝彦弁護士事務所に「南京事件の虚構を正す会」が置かれた[6]。板倉はこの訴訟を突破口として、 歩20の残虐行為の虚偽を証明して名誉を回復し、さらに、 いわゆる『南京大虐殺』の虚構を明らかにしたいと述べた[33][6]。

判決内容
東京地裁判決
1996年4月、東京地裁1審判決は日記の記述を虚構と認定し、 東ら三者に50万円の支払いを命じた[34][6]。被告は上告。

1審判決では、南京事件については 「多数の捕虜や非戦闘員である中国人が日本兵によって殺害された」の「概ね否定しがたい事実」であると家永教科書裁判判決を踏襲したが、郵便袋事件については、不自然というべきで、客観的証拠はなく、 事実と認めるに足りない、「実行者に危険で、実行可能性がない」と判決された[6]。

原告は法廷で「自分は中国で人を殺したことがない。 強姦もしたことがない。 略奪も死体も見たことがない」と証言した[6]。

東弁護団は「東史郎さんの南京裁判を支える会」を結成し、 名誉毀損に当たらないことを立証するために、郵便袋事件が不自然でもないことを南京での手榴弾再現実験や、水中に人を袋に入れて沈む深さを計る実験などを行ったが、これらの実験結果や現地調査も判決で否定された[6][35]。

高裁(控訴審)判決
控訴審第1回公判は1996年9月26日に開始され、1998年12月22日に東京高等裁判所第7民事部(裁判長奥山興悦、裁判官・杉山正己、佐藤陽一)で控訴棄却の判決が下された[36][37]。

控訴審では、東が戦前に書いたとされる「日記」の現物が裁判所に提出されたが、南京戦に関する部分は「日記」の現物は提出されなかった[38]。東側は「日記」のその部分は、当時「懐中手帳」に書き、それを二、三年後に書き写したと主張したが、その「懐中手帳」は法廷に提出されなかった[39]。さらに、東は、ある展示会に貸出したところ返却されなかったと主張したが、その主張は展示会の責任者によって否定された[40]。

東は、日記は陣中メモ等を後の1940年から1944年3月までに「正確に記録したもの」であると反論した [41]。しかし、判決では、東日記は戦前に書かれたものかどうかも疑問で、 戦後に加筆された可能性もあり、「東の供述は全面的には採用しがたい」 と判定した [42]。また高裁は「1938年(昭和13年)3月以前についての原資料である懐中手帳などは存在しない」と判定し[43]、「控訴人東が具体的な事実を再現して供述することができなかったのは、 本件行為を目撃していなかった、すなわち、 本件行為が実行されていないからと推認せざるを得ない」と判定した[6]。裁判では、日記の多くの記述も「疑問が生じる」と指摘され、「主要な部分を裏付ける証拠はなく、真実と認めることはできない」とされた[16]。
中略
高裁判決後
原告弁護団の高池勝彦弁護士は、この判決によって東氏の書籍自体の信用性がないことが 明らかになった(略)かねがねマスコミや評論家と称する人たちが旧日本軍の非行を暴く場合、 告発者への一方的な取材だけで、それの真偽も検証せず、 その主張するままを記事にしているが本件もその一例で、 東日記が大々的に宣伝され、 多くの新聞やテレヴィでは訴訟中も原告側に対する取材は殆どなかった、として 公平な両当事者からの取材を要求した[10]。

1998年12月22日の高裁判決の報道陣は中国側から北京中央テレビ・江蘇テレビ・南京テレビ・ 香港テレビが取材した[45]。中国のメディアは、 裁判官が13分遅刻して出廷したこと、判決の言い渡しが簡単すぎたこと、原告が記者会見に登場しなかったことに驚愕し憤激を覚えた[10]。さらに、原告側記者会見の際に「南京虐殺捏造裁判勝利」という幕に対して中国報道陣から「この幕は、多くの中国人の心に深い傷をつけるので、取り外してください」「中国人に対しての侮辱だ」と抗議したが、取り外されなかった[10]。会見では南京大虐殺についての質問が相次ぎ、高池勝彦弁護士は「私の個人的見解は捏造だと思いますよ。 戦争ですから日本の兵隊が全く悪いことをしていなかったとは思いません。(略)ただし南京大虐殺はそういうものじゃないでしょ。 例えば殺人3件だったら大虐殺とは言いませんよね」と答えた[46]。 江蘇テレビ局の記者が南京大虐殺を起こしたのは日本だから、日本が証拠を出すべきだと抗議すると、高池は「あったというのなら、 そう主張する方が(証拠を)あげるべき」だと反論した[10]。

*この中国の言い方(プロパガンダ)は、モリカケ報道における朝日やNHKなどの言い方と、或いは泊原発反対活動家たちが持ち出している海陸の何万年前の断層云々の「やくざの言いがかり、伊方原発再稼働反対活動家たちの、阿蘇山が噴火して愛媛県まで火砕流が来る、の「やくざの言いがかり」に、共通なのである。

つまり、彼らは(当然のことながら…それが捏造だから)証拠をだせるわけがないのに、攻撃相手に証拠をだせという、悪魔の証明を、一様に論法として使うのである。

朝日新聞やNHKなどが、中国の工作下にあることは、私の、この章でも明瞭だろう。*
後略。


また高裁は「1938年(昭和13年)3月以前についての原資料である懐中手帳などは存在しない」と判定し

2018年09月30日 11時27分30秒 | 日記

本章では慰安婦報道や南京大虐殺報道において…左翼活動家或いは中国や朝鮮半島の工作下にある人間達はどのように嘘をつくのかが以下の裁判記録の中に在る事…

それを私は日本と世界に明瞭に知らせる…日本と世界を正す、それが私の使命だからである。

以下は今しがたネットで発見して初めて知った事実である。
ウィキペディアから。文中強調と*~*は私。
慰安婦問題における吉田清治と同様の、元日本兵で戦後の風潮に乗じて、或いは中国等の工作を受けて南京大虐殺の捏造に加担した元兵士が、やっぱり存在していた事を私は初めて知った。

東 史郎(あずま しろう、1912年(明治45年)4月27日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の軍人(召集兵)、著述家、社会活動家。京都第16師団、福知山第20連隊上等兵として南京攻略戦に参加し、南京大虐殺(南京事件)を著書『わが南京プラトーン』で告発した。中国やアメリカ合衆国などでも謝罪活動を続けた。

日記の記述について元上官と名誉毀損裁判となり、最高裁で東日記の記述は客観的証拠がないと判定され、損害賠償が命じられた[1][2]。
中略
東は訪中するたびに英雄として各地で熱烈歓迎を受けた[19]
中略
教科書に記載された東証言
日本:一橋出版『世界史B』
1993年、笠原十九司は東史郎手記から、兵士の安眠のために農民を殺すのだった、と教科書『世界史B』(一橋出版)に引用した[29]。
『宿営にあたって・・・農民を殺して寝た。・・・襲撃してくるかもしれないから、殺すのだった。・・・』と日本の一兵士は日記に書きのこしている」
— 笠原十九司,一橋出版『世界史B』(平成5年検定)
上杉千年や産経新聞は東日記は詐話(作り話)であり疑わしい資料であるため、教科書での使用は不適であると説いた[30]。板倉由明は東裁判で係争中の本からの引用は問題と抗議し、出版社側は中島今朝吾師団長日記と差し替えた[6]。
カリフォルニア州公立高校での教材として
アメリカでは2015年、カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で東証言が教材として使用された[16]。教材は、1999年から全米で放映されたケーブルテレビ局ヒストリー・チャンネルの「ザ・センチュリー/アメリカズ・タイム」で、その番組のなかで東は、戦争当時中国人女性を見つけると必ず5人で集団レイプし、レイプ後は火をつけて燃やした、と発言していた[16]。
名誉毀損裁判
東の著書で中国人を郵便袋の中に入れて殺害したと証言された元歩兵第20聯隊第3中隊第1分隊長の上官が1993年4月15日、名誉棄損で東史郎、下里正樹、青木書店の三者を東京地裁に提訴した[31][6]。裁判は東裁判(あずまさいばん)とも呼ばれる[24][32]。

原告は板倉由明とも相談し、原告代理人高池勝彦弁護士事務所に「南京事件の虚構を正す会」が置かれた[6]。板倉はこの訴訟を突破口として、 歩20の残虐行為の虚偽を証明して名誉を回復し、さらに、 いわゆる『南京大虐殺』の虚構を明らかにしたいと述べた[33][6]。

判決内容
東京地裁判決
1996年4月、東京地裁1審判決は日記の記述を虚構と認定し、 東ら三者に50万円の支払いを命じた[34][6]。被告は上告。

1審判決では、南京事件については 「多数の捕虜や非戦闘員である中国人が日本兵によって殺害された」の「概ね否定しがたい事実」であると家永教科書裁判判決を踏襲したが、郵便袋事件については、不自然というべきで、客観的証拠はなく、 事実と認めるに足りない、「実行者に危険で、実行可能性がない」と判決された[6]。

原告は法廷で「自分は中国で人を殺したことがない。 強姦もしたことがない。 略奪も死体も見たことがない」と証言した[6]。

東弁護団は「東史郎さんの南京裁判を支える会」を結成し、 名誉毀損に当たらないことを立証するために、郵便袋事件が不自然でもないことを南京での手榴弾再現実験や、水中に人を袋に入れて沈む深さを計る実験などを行ったが、これらの実験結果や現地調査も判決で否定された[6][35]。

高裁(控訴審)判決
控訴審第1回公判は1996年9月26日に開始され、1998年12月22日に東京高等裁判所第7民事部(裁判長奥山興悦、裁判官・杉山正己、佐藤陽一)で控訴棄却の判決が下された[36][37]。

控訴審では、東が戦前に書いたとされる「日記」の現物が裁判所に提出されたが、南京戦に関する部分は「日記」の現物は提出されなかった[38]。東側は「日記」のその部分は、当時「懐中手帳」に書き、それを二、三年後に書き写したと主張したが、その「懐中手帳」は法廷に提出されなかった[39]。さらに、東は、ある展示会に貸出したところ返却されなかったと主張したが、その主張は展示会の責任者によって否定された[40]。

東は、日記は陣中メモ等を後の1940年から1944年3月までに「正確に記録したもの」であると反論した [41]。しかし、判決では、東日記は戦前に書かれたものかどうかも疑問で、 戦後に加筆された可能性もあり、「東の供述は全面的には採用しがたい」 と判定した [42]。また高裁は「1938年(昭和13年)3月以前についての原資料である懐中手帳などは存在しない」と判定し[43]、「控訴人東が具体的な事実を再現して供述することができなかったのは、 本件行為を目撃していなかった、すなわち、 本件行為が実行されていないからと推認せざるを得ない」と判定した[6]。裁判では、日記の多くの記述も「疑問が生じる」と指摘され、「主要な部分を裏付ける証拠はなく、真実と認めることはできない」とされた[16]。
中略
高裁判決後
原告弁護団の高池勝彦弁護士は、この判決によって東氏の書籍自体の信用性がないことが 明らかになった(略)かねがねマスコミや評論家と称する人たちが旧日本軍の非行を暴く場合、 告発者への一方的な取材だけで、それの真偽も検証せず、 その主張するままを記事にしているが本件もその一例で、 東日記が大々的に宣伝され、 多くの新聞やテレヴィでは訴訟中も原告側に対する取材は殆どなかった、として 公平な両当事者からの取材を要求した[10]。

1998年12月22日の高裁判決の報道陣は中国側から北京中央テレビ・江蘇テレビ・南京テレビ・ 香港テレビが取材した[45]。中国のメディアは、 裁判官が13分遅刻して出廷したこと、判決の言い渡しが簡単すぎたこと、原告が記者会見に登場しなかったことに驚愕し憤激を覚えた[10]。さらに、原告側記者会見の際に「南京虐殺捏造裁判勝利」という幕に対して中国報道陣から「この幕は、多くの中国人の心に深い傷をつけるので、取り外してください」「中国人に対しての侮辱だ」と抗議したが、取り外されなかった[10]。会見では南京大虐殺についての質問が相次ぎ、高池勝彦弁護士は「私の個人的見解は捏造だと思いますよ。 戦争ですから日本の兵隊が全く悪いことをしていなかったとは思いません。(略)ただし南京大虐殺はそういうものじゃないでしょ。 例えば殺人3件だったら大虐殺とは言いませんよね」と答えた[46]。 江蘇テレビ局の記者が南京大虐殺を起こしたのは日本だから、日本が証拠を出すべきだと抗議すると、高池は「あったというのなら、 そう主張する方が(証拠を)あげるべき」だと反論した[10]。

*この中国の言い方(プロパガンダ)は、モリカケ報道における朝日やNHKなどの言い方と、或いは泊原発反対活動家たちが持ち出している海陸の何万年前の断層云々の「やくざの言いがかり、伊方原発再稼働反対活動家たちの、阿蘇山が噴火して愛媛県まで火砕流が来る、の「やくざの言いがかり」に、共通なのである。

つまり、彼らは(当然のことながら…それが捏造だから)証拠をだせるわけがないのに、攻撃相手に証拠をだせという、悪魔の証明を、一様に論法として使うのである。

朝日新聞やNHKなどが、中国の工作下にあることは、私の、この章でも明瞭だろう。*
後略。


しかし、判決では、東日記は戦前に書かれたものかどうかも疑問で、 戦後に加筆された可能性もあり、「東の供述は全面的には採用しがたい」 と判定した

2018年09月30日 11時22分40秒 | 日記

本章では慰安婦報道や南京大虐殺報道において…左翼活動家或いは中国や朝鮮半島の工作下にある人間達はどのように嘘をつくのかが以下の裁判記録の中に在る事…

それを私は日本と世界に明瞭に知らせる…日本と世界を正す、それが私の使命だからである。

以下は今しがたネットで発見して初めて知った事実である。
ウィキペディアから。文中強調と*~*は私。
慰安婦問題における吉田清治と同様の、元日本兵で戦後の風潮に乗じて、或いは中国等の工作を受けて南京大虐殺の捏造に加担した元兵士が、やっぱり存在していた事を私は初めて知った。

東 史郎(あずま しろう、1912年(明治45年)4月27日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の軍人(召集兵)、著述家、社会活動家。京都第16師団、福知山第20連隊上等兵として南京攻略戦に参加し、南京大虐殺(南京事件)を著書『わが南京プラトーン』で告発した。中国やアメリカ合衆国などでも謝罪活動を続けた。

日記の記述について元上官と名誉毀損裁判となり、最高裁で東日記の記述は客観的証拠がないと判定され、損害賠償が命じられた[1][2]。
中略
東は訪中するたびに英雄として各地で熱烈歓迎を受けた[19]
中略
教科書に記載された東証言
日本:一橋出版『世界史B』
1993年、笠原十九司は東史郎手記から、兵士の安眠のために農民を殺すのだった、と教科書『世界史B』(一橋出版)に引用した[29]。
『宿営にあたって・・・農民を殺して寝た。・・・襲撃してくるかもしれないから、殺すのだった。・・・』と日本の一兵士は日記に書きのこしている」
— 笠原十九司,一橋出版『世界史B』(平成5年検定)
上杉千年や産経新聞は東日記は詐話(作り話)であり疑わしい資料であるため、教科書での使用は不適であると説いた[30]。板倉由明は東裁判で係争中の本からの引用は問題と抗議し、出版社側は中島今朝吾師団長日記と差し替えた[6]。
カリフォルニア州公立高校での教材として
アメリカでは2015年、カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で東証言が教材として使用された[16]。教材は、1999年から全米で放映されたケーブルテレビ局ヒストリー・チャンネルの「ザ・センチュリー/アメリカズ・タイム」で、その番組のなかで東は、戦争当時中国人女性を見つけると必ず5人で集団レイプし、レイプ後は火をつけて燃やした、と発言していた[16]。
名誉毀損裁判
東の著書で中国人を郵便袋の中に入れて殺害したと証言された元歩兵第20聯隊第3中隊第1分隊長の上官が1993年4月15日、名誉棄損で東史郎、下里正樹、青木書店の三者を東京地裁に提訴した[31][6]。裁判は東裁判(あずまさいばん)とも呼ばれる[24][32]。

原告は板倉由明とも相談し、原告代理人高池勝彦弁護士事務所に「南京事件の虚構を正す会」が置かれた[6]。板倉はこの訴訟を突破口として、 歩20の残虐行為の虚偽を証明して名誉を回復し、さらに、 いわゆる『南京大虐殺』の虚構を明らかにしたいと述べた[33][6]。

判決内容
東京地裁判決
1996年4月、東京地裁1審判決は日記の記述を虚構と認定し、 東ら三者に50万円の支払いを命じた[34][6]。被告は上告。

1審判決では、南京事件については 「多数の捕虜や非戦闘員である中国人が日本兵によって殺害された」の「概ね否定しがたい事実」であると家永教科書裁判判決を踏襲したが、郵便袋事件については、不自然というべきで、客観的証拠はなく、 事実と認めるに足りない、「実行者に危険で、実行可能性がない」と判決された[6]。

原告は法廷で「自分は中国で人を殺したことがない。 強姦もしたことがない。 略奪も死体も見たことがない」と証言した[6]。

東弁護団は「東史郎さんの南京裁判を支える会」を結成し、 名誉毀損に当たらないことを立証するために、郵便袋事件が不自然でもないことを南京での手榴弾再現実験や、水中に人を袋に入れて沈む深さを計る実験などを行ったが、これらの実験結果や現地調査も判決で否定された[6][35]。

高裁(控訴審)判決
控訴審第1回公判は1996年9月26日に開始され、1998年12月22日に東京高等裁判所第7民事部(裁判長奥山興悦、裁判官・杉山正己、佐藤陽一)で控訴棄却の判決が下された[36][37]。

控訴審では、東が戦前に書いたとされる「日記」の現物が裁判所に提出されたが、南京戦に関する部分は「日記」の現物は提出されなかった[38]。東側は「日記」のその部分は、当時「懐中手帳」に書き、それを二、三年後に書き写したと主張したが、その「懐中手帳」は法廷に提出されなかった[39]。さらに、東は、ある展示会に貸出したところ返却されなかったと主張したが、その主張は展示会の責任者によって否定された[40]。

東は、日記は陣中メモ等を後の1940年から1944年3月までに「正確に記録したもの」であると反論した [41]。しかし、判決では、東日記は戦前に書かれたものかどうかも疑問で、 戦後に加筆された可能性もあり、「東の供述は全面的には採用しがたい」 と判定した [42]。また高裁は「1938年(昭和13年)3月以前についての原資料である懐中手帳などは存在しない」と判定し[43]、「控訴人東が具体的な事実を再現して供述することができなかったのは、 本件行為を目撃していなかった、すなわち、 本件行為が実行されていないからと推認せざるを得ない」と判定した[6]。裁判では、日記の多くの記述も「疑問が生じる」と指摘され、「主要な部分を裏付ける証拠はなく、真実と認めることはできない」とされた[16]。
中略
高裁判決後
原告弁護団の高池勝彦弁護士は、この判決によって東氏の書籍自体の信用性がないことが 明らかになった(略)かねがねマスコミや評論家と称する人たちが旧日本軍の非行を暴く場合、 告発者への一方的な取材だけで、それの真偽も検証せず、 その主張するままを記事にしているが本件もその一例で、 東日記が大々的に宣伝され、 多くの新聞やテレヴィでは訴訟中も原告側に対する取材は殆どなかった、として 公平な両当事者からの取材を要求した[10]。

1998年12月22日の高裁判決の報道陣は中国側から北京中央テレビ・江蘇テレビ・南京テレビ・ 香港テレビが取材した[45]。中国のメディアは、 裁判官が13分遅刻して出廷したこと、判決の言い渡しが簡単すぎたこと、原告が記者会見に登場しなかったことに驚愕し憤激を覚えた[10]。さらに、原告側記者会見の際に「南京虐殺捏造裁判勝利」という幕に対して中国報道陣から「この幕は、多くの中国人の心に深い傷をつけるので、取り外してください」「中国人に対しての侮辱だ」と抗議したが、取り外されなかった[10]。会見では南京大虐殺についての質問が相次ぎ、高池勝彦弁護士は「私の個人的見解は捏造だと思いますよ。 戦争ですから日本の兵隊が全く悪いことをしていなかったとは思いません。(略)ただし南京大虐殺はそういうものじゃないでしょ。 例えば殺人3件だったら大虐殺とは言いませんよね」と答えた[46]。 江蘇テレビ局の記者が南京大虐殺を起こしたのは日本だから、日本が証拠を出すべきだと抗議すると、高池は「あったというのなら、 そう主張する方が(証拠を)あげるべき」だと反論した[10]。

*この中国の言い方(プロパガンダ)は、モリカケ報道における朝日やNHKなどの言い方と、或いは泊原発反対活動家たちが持ち出している海陸の何万年前の断層云々の「やくざの言いがかり、伊方原発再稼働反対活動家たちの、阿蘇山が噴火して愛媛県まで火砕流が来る、の「やくざの言いがかり」に、共通なのである。

つまり、彼らは(当然のことながら…それが捏造だから)証拠をだせるわけがないのに、攻撃相手に証拠をだせという、悪魔の証明を、一様に論法として使うのである。

朝日新聞やNHKなどが、中国の工作下にあることは、私の、この章でも明瞭だろう。*
後略。


さらに、東は、ある展示会に貸出したところ返却されなかったと主張したが、その主張は展示会の責任者によって否定された

2018年09月30日 11時21分33秒 | 日記

本章では慰安婦報道や南京大虐殺報道において…左翼活動家或いは中国や朝鮮半島の工作下にある人間達はどのように嘘をつくのかが以下の裁判記録の中に在る事…

それを私は日本と世界に明瞭に知らせる…日本と世界を正す、それが私の使命だからである。

以下は今しがたネットで発見して初めて知った事実である。
ウィキペディアから。文中強調と*~*は私。
慰安婦問題における吉田清治と同様の、元日本兵で戦後の風潮に乗じて、或いは中国等の工作を受けて南京大虐殺の捏造に加担した元兵士が、やっぱり存在していた事を私は初めて知った。

東 史郎(あずま しろう、1912年(明治45年)4月27日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の軍人(召集兵)、著述家、社会活動家。京都第16師団、福知山第20連隊上等兵として南京攻略戦に参加し、南京大虐殺(南京事件)を著書『わが南京プラトーン』で告発した。中国やアメリカ合衆国などでも謝罪活動を続けた。

日記の記述について元上官と名誉毀損裁判となり、最高裁で東日記の記述は客観的証拠がないと判定され、損害賠償が命じられた[1][2]。
中略
東は訪中するたびに英雄として各地で熱烈歓迎を受けた[19]
中略
教科書に記載された東証言
日本:一橋出版『世界史B』
1993年、笠原十九司は東史郎手記から、兵士の安眠のために農民を殺すのだった、と教科書『世界史B』(一橋出版)に引用した[29]。
『宿営にあたって・・・農民を殺して寝た。・・・襲撃してくるかもしれないから、殺すのだった。・・・』と日本の一兵士は日記に書きのこしている」
— 笠原十九司,一橋出版『世界史B』(平成5年検定)
上杉千年や産経新聞は東日記は詐話(作り話)であり疑わしい資料であるため、教科書での使用は不適であると説いた[30]。板倉由明は東裁判で係争中の本からの引用は問題と抗議し、出版社側は中島今朝吾師団長日記と差し替えた[6]。
カリフォルニア州公立高校での教材として
アメリカでは2015年、カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で東証言が教材として使用された[16]。教材は、1999年から全米で放映されたケーブルテレビ局ヒストリー・チャンネルの「ザ・センチュリー/アメリカズ・タイム」で、その番組のなかで東は、戦争当時中国人女性を見つけると必ず5人で集団レイプし、レイプ後は火をつけて燃やした、と発言していた[16]。
名誉毀損裁判
東の著書で中国人を郵便袋の中に入れて殺害したと証言された元歩兵第20聯隊第3中隊第1分隊長の上官が1993年4月15日、名誉棄損で東史郎、下里正樹、青木書店の三者を東京地裁に提訴した[31][6]。裁判は東裁判(あずまさいばん)とも呼ばれる[24][32]。

原告は板倉由明とも相談し、原告代理人高池勝彦弁護士事務所に「南京事件の虚構を正す会」が置かれた[6]。板倉はこの訴訟を突破口として、 歩20の残虐行為の虚偽を証明して名誉を回復し、さらに、 いわゆる『南京大虐殺』の虚構を明らかにしたいと述べた[33][6]。

判決内容
東京地裁判決
1996年4月、東京地裁1審判決は日記の記述を虚構と認定し、 東ら三者に50万円の支払いを命じた[34][6]。被告は上告。

1審判決では、南京事件については 「多数の捕虜や非戦闘員である中国人が日本兵によって殺害された」の「概ね否定しがたい事実」であると家永教科書裁判判決を踏襲したが、郵便袋事件については、不自然というべきで、客観的証拠はなく、 事実と認めるに足りない、「実行者に危険で、実行可能性がない」と判決された[6]。

原告は法廷で「自分は中国で人を殺したことがない。 強姦もしたことがない。 略奪も死体も見たことがない」と証言した[6]。

東弁護団は「東史郎さんの南京裁判を支える会」を結成し、 名誉毀損に当たらないことを立証するために、郵便袋事件が不自然でもないことを南京での手榴弾再現実験や、水中に人を袋に入れて沈む深さを計る実験などを行ったが、これらの実験結果や現地調査も判決で否定された[6][35]。

高裁(控訴審)判決
控訴審第1回公判は1996年9月26日に開始され、1998年12月22日に東京高等裁判所第7民事部(裁判長奥山興悦、裁判官・杉山正己、佐藤陽一)で控訴棄却の判決が下された[36][37]。

控訴審では、東が戦前に書いたとされる「日記」の現物が裁判所に提出されたが、南京戦に関する部分は「日記」の現物は提出されなかった[38]。東側は「日記」のその部分は、当時「懐中手帳」に書き、それを二、三年後に書き写したと主張したが、その「懐中手帳」は法廷に提出されなかった[39]。さらに、東は、ある展示会に貸出したところ返却されなかったと主張したが、その主張は展示会の責任者によって否定された[40]。

東は、日記は陣中メモ等を後の1940年から1944年3月までに「正確に記録したもの」であると反論した [41]。しかし、判決では、東日記は戦前に書かれたものかどうかも疑問で、 戦後に加筆された可能性もあり、「東の供述は全面的には採用しがたい」 と判定した [42]。また高裁は「1938年(昭和13年)3月以前についての原資料である懐中手帳などは存在しない」と判定し[43]、「控訴人東が具体的な事実を再現して供述することができなかったのは、 本件行為を目撃していなかった、すなわち、 本件行為が実行されていないからと推認せざるを得ない」と判定した[6]。裁判では、日記の多くの記述も「疑問が生じる」と指摘され、「主要な部分を裏付ける証拠はなく、真実と認めることはできない」とされた[16]。
中略
高裁判決後
原告弁護団の高池勝彦弁護士は、この判決によって東氏の書籍自体の信用性がないことが 明らかになった(略)かねがねマスコミや評論家と称する人たちが旧日本軍の非行を暴く場合、 告発者への一方的な取材だけで、それの真偽も検証せず、 その主張するままを記事にしているが本件もその一例で、 東日記が大々的に宣伝され、 多くの新聞やテレヴィでは訴訟中も原告側に対する取材は殆どなかった、として 公平な両当事者からの取材を要求した[10]。

1998年12月22日の高裁判決の報道陣は中国側から北京中央テレビ・江蘇テレビ・南京テレビ・ 香港テレビが取材した[45]。中国のメディアは、 裁判官が13分遅刻して出廷したこと、判決の言い渡しが簡単すぎたこと、原告が記者会見に登場しなかったことに驚愕し憤激を覚えた[10]。さらに、原告側記者会見の際に「南京虐殺捏造裁判勝利」という幕に対して中国報道陣から「この幕は、多くの中国人の心に深い傷をつけるので、取り外してください」「中国人に対しての侮辱だ」と抗議したが、取り外されなかった[10]。会見では南京大虐殺についての質問が相次ぎ、高池勝彦弁護士は「私の個人的見解は捏造だと思いますよ。 戦争ですから日本の兵隊が全く悪いことをしていなかったとは思いません。(略)ただし南京大虐殺はそういうものじゃないでしょ。 例えば殺人3件だったら大虐殺とは言いませんよね」と答えた[46]。 江蘇テレビ局の記者が南京大虐殺を起こしたのは日本だから、日本が証拠を出すべきだと抗議すると、高池は「あったというのなら、 そう主張する方が(証拠を)あげるべき」だと反論した[10]。

*この中国の言い方(プロパガンダ)は、モリカケ報道における朝日やNHKなどの言い方と、或いは泊原発反対活動家たちが持ち出している海陸の何万年前の断層云々の「やくざの言いがかり、伊方原発再稼働反対活動家たちの、阿蘇山が噴火して愛媛県まで火砕流が来る、の「やくざの言いがかり」に、共通なのである。

つまり、彼らは(当然のことながら…それが捏造だから)証拠をだせるわけがないのに、攻撃相手に証拠をだせという、悪魔の証明を、一様に論法として使うのである。

朝日新聞やNHKなどが、中国の工作下にあることは、私の、この章でも明瞭だろう。*
後略。


東側は「日記」のその部分は、当時「懐中手帳」に書き、それを二、三年後に書き写したと主張したが、その「懐中手帳」は法廷に提出されなかった

2018年09月30日 11時19分41秒 | 日記

本章では慰安婦報道や南京大虐殺報道において…左翼活動家或いは中国や朝鮮半島の工作下にある人間達はどのように嘘をつくのかが以下の裁判記録の中に在る事…

それを私は日本と世界に明瞭に知らせる…日本と世界を正す、それが私の使命だからである。

以下は今しがたネットで発見して初めて知った事実である。
ウィキペディアから。文中強調と*~*は私。
慰安婦問題における吉田清治と同様の、元日本兵で戦後の風潮に乗じて、或いは中国等の工作を受けて南京大虐殺の捏造に加担した元兵士が、やっぱり存在していた事を私は初めて知った。

東 史郎(あずま しろう、1912年(明治45年)4月27日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の軍人(召集兵)、著述家、社会活動家。京都第16師団、福知山第20連隊上等兵として南京攻略戦に参加し、南京大虐殺(南京事件)を著書『わが南京プラトーン』で告発した。中国やアメリカ合衆国などでも謝罪活動を続けた。

日記の記述について元上官と名誉毀損裁判となり、最高裁で東日記の記述は客観的証拠がないと判定され、損害賠償が命じられた[1][2]。
中略
東は訪中するたびに英雄として各地で熱烈歓迎を受けた[19]
中略
教科書に記載された東証言
日本:一橋出版『世界史B』
1993年、笠原十九司は東史郎手記から、兵士の安眠のために農民を殺すのだった、と教科書『世界史B』(一橋出版)に引用した[29]。
『宿営にあたって・・・農民を殺して寝た。・・・襲撃してくるかもしれないから、殺すのだった。・・・』と日本の一兵士は日記に書きのこしている」
— 笠原十九司,一橋出版『世界史B』(平成5年検定)
上杉千年や産経新聞は東日記は詐話(作り話)であり疑わしい資料であるため、教科書での使用は不適であると説いた[30]。板倉由明は東裁判で係争中の本からの引用は問題と抗議し、出版社側は中島今朝吾師団長日記と差し替えた[6]。
カリフォルニア州公立高校での教材として
アメリカでは2015年、カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で東証言が教材として使用された[16]。教材は、1999年から全米で放映されたケーブルテレビ局ヒストリー・チャンネルの「ザ・センチュリー/アメリカズ・タイム」で、その番組のなかで東は、戦争当時中国人女性を見つけると必ず5人で集団レイプし、レイプ後は火をつけて燃やした、と発言していた[16]。
名誉毀損裁判
東の著書で中国人を郵便袋の中に入れて殺害したと証言された元歩兵第20聯隊第3中隊第1分隊長の上官が1993年4月15日、名誉棄損で東史郎、下里正樹、青木書店の三者を東京地裁に提訴した[31][6]。裁判は東裁判(あずまさいばん)とも呼ばれる[24][32]。

原告は板倉由明とも相談し、原告代理人高池勝彦弁護士事務所に「南京事件の虚構を正す会」が置かれた[6]。板倉はこの訴訟を突破口として、 歩20の残虐行為の虚偽を証明して名誉を回復し、さらに、 いわゆる『南京大虐殺』の虚構を明らかにしたいと述べた[33][6]。

判決内容
東京地裁判決
1996年4月、東京地裁1審判決は日記の記述を虚構と認定し、 東ら三者に50万円の支払いを命じた[34][6]。被告は上告。

1審判決では、南京事件については 「多数の捕虜や非戦闘員である中国人が日本兵によって殺害された」の「概ね否定しがたい事実」であると家永教科書裁判判決を踏襲したが、郵便袋事件については、不自然というべきで、客観的証拠はなく、 事実と認めるに足りない、「実行者に危険で、実行可能性がない」と判決された[6]。

原告は法廷で「自分は中国で人を殺したことがない。 強姦もしたことがない。 略奪も死体も見たことがない」と証言した[6]。

東弁護団は「東史郎さんの南京裁判を支える会」を結成し、 名誉毀損に当たらないことを立証するために、郵便袋事件が不自然でもないことを南京での手榴弾再現実験や、水中に人を袋に入れて沈む深さを計る実験などを行ったが、これらの実験結果や現地調査も判決で否定された[6][35]。

高裁(控訴審)判決
控訴審第1回公判は1996年9月26日に開始され、1998年12月22日に東京高等裁判所第7民事部(裁判長奥山興悦、裁判官・杉山正己、佐藤陽一)で控訴棄却の判決が下された[36][37]。

控訴審では、東が戦前に書いたとされる「日記」の現物が裁判所に提出されたが、南京戦に関する部分は「日記」の現物は提出されなかった[38]。東側は「日記」のその部分は、当時「懐中手帳」に書き、それを二、三年後に書き写したと主張したが、その「懐中手帳」は法廷に提出されなかった[39]。さらに、東は、ある展示会に貸出したところ返却されなかったと主張したが、その主張は展示会の責任者によって否定された[40]。

東は、日記は陣中メモ等を後の1940年から1944年3月までに「正確に記録したもの」であると反論した [41]。しかし、判決では、東日記は戦前に書かれたものかどうかも疑問で、 戦後に加筆された可能性もあり、「東の供述は全面的には採用しがたい」 と判定した [42]。また高裁は「1938年(昭和13年)3月以前についての原資料である懐中手帳などは存在しない」と判定し[43]、「控訴人東が具体的な事実を再現して供述することができなかったのは、 本件行為を目撃していなかった、すなわち、 本件行為が実行されていないからと推認せざるを得ない」と判定した[6]。裁判では、日記の多くの記述も「疑問が生じる」と指摘され、「主要な部分を裏付ける証拠はなく、真実と認めることはできない」とされた[16]。
中略
高裁判決後
原告弁護団の高池勝彦弁護士は、この判決によって東氏の書籍自体の信用性がないことが 明らかになった(略)かねがねマスコミや評論家と称する人たちが旧日本軍の非行を暴く場合、 告発者への一方的な取材だけで、それの真偽も検証せず、 その主張するままを記事にしているが本件もその一例で、 東日記が大々的に宣伝され、 多くの新聞やテレヴィでは訴訟中も原告側に対する取材は殆どなかった、として 公平な両当事者からの取材を要求した[10]。

1998年12月22日の高裁判決の報道陣は中国側から北京中央テレビ・江蘇テレビ・南京テレビ・ 香港テレビが取材した[45]。中国のメディアは、 裁判官が13分遅刻して出廷したこと、判決の言い渡しが簡単すぎたこと、原告が記者会見に登場しなかったことに驚愕し憤激を覚えた[10]。さらに、原告側記者会見の際に「南京虐殺捏造裁判勝利」という幕に対して中国報道陣から「この幕は、多くの中国人の心に深い傷をつけるので、取り外してください」「中国人に対しての侮辱だ」と抗議したが、取り外されなかった[10]。会見では南京大虐殺についての質問が相次ぎ、高池勝彦弁護士は「私の個人的見解は捏造だと思いますよ。 戦争ですから日本の兵隊が全く悪いことをしていなかったとは思いません。(略)ただし南京大虐殺はそういうものじゃないでしょ。 例えば殺人3件だったら大虐殺とは言いませんよね」と答えた[46]。 江蘇テレビ局の記者が南京大虐殺を起こしたのは日本だから、日本が証拠を出すべきだと抗議すると、高池は「あったというのなら、 そう主張する方が(証拠を)あげるべき」だと反論した[10]。

*この中国の言い方(プロパガンダ)は、モリカケ報道における朝日やNHKなどの言い方と、或いは泊原発反対活動家たちが持ち出している海陸の何万年前の断層云々の「やくざの言いがかり、伊方原発再稼働反対活動家たちの、阿蘇山が噴火して愛媛県まで火砕流が来る、の「やくざの言いがかり」に、共通なのである。

つまり、彼らは(当然のことながら…それが捏造だから)証拠をだせるわけがないのに、攻撃相手に証拠をだせという、悪魔の証明を、一様に論法として使うのである。

朝日新聞やNHKなどが、中国の工作下にあることは、私の、この章でも明瞭だろう。*
後略。


山口二郎や長谷部某などや国分某等の朝日新聞御用達の学者連中の事を思えば、残念ながら腰折れした次第である。

2018年09月30日 11時04分12秒 | 日記

前章のタイトルが意味している事は、米国はプロパガンダに弱い構造を持った国であると言う事だ…

(それを知っているから中国と韓国は米国で活発な反日プロパガンダ活動を続けているのだ)

高山正之が教えてくれたように、元々、米国の新聞紙の多くはフェイクニュースを平然と流すものだった…その伝統が今でも残っているのだろう。

日本は戦前、戦中に国民を日米戦争に駆り立てた紙面づくりをした態様を裏返した形で、大衆を扇動する事しか能のない連中がメディアで生計を立てていると言う事なのである。

つまり日本もプロパガンダには米国同様に弱い要素がある。

だが、それはメディアなどの場合だけであって学問のレベルでは違うと言いたかったのだが…、

山口二郎や長谷部某などや国分某等の朝日新聞御用達の学者連中の事を思えば、残念ながら腰折れした次第である。


その番組のなかで東は、戦争当時中国人女性を見つけると必ず5人で集団レイプし、レイプ後は火をつけて燃やした、と発言していた

2018年09月30日 10時41分43秒 | 日記

以下は今しがたネットで発見して初めて知った事実である。
ウィキペディアから。文中強調と*~*は私。
慰安婦問題における吉田清治と同様の、元日本兵で戦後の風潮に乗じて、或いは中国等の工作を受けて南京大虐殺の捏造に加担した元兵士が、やっぱり存在していた事を私は初めて知った。

東 史郎(あずま しろう、1912年(明治45年)4月27日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の軍人(召集兵)、著述家、社会活動家。京都第16師団、福知山第20連隊上等兵として南京攻略戦に参加し、南京大虐殺(南京事件)を著書『わが南京プラトーン』で告発した。中国やアメリカ合衆国などでも謝罪活動を続けた。

日記の記述について元上官と名誉毀損裁判となり、最高裁で東日記の記述は客観的証拠がないと判定され、損害賠償が命じられた[1][2]。
中略
東は訪中するたびに英雄として各地で熱烈歓迎を受けた[19]
中略
教科書に記載された東証言
日本:一橋出版『世界史B』
1993年、笠原十九司は東史郎手記から、兵士の安眠のために農民を殺すのだった、と教科書『世界史B』(一橋出版)に引用した[29]。
『宿営にあたって・・・農民を殺して寝た。・・・襲撃してくるかもしれないから、殺すのだった。・・・』と日本の一兵士は日記に書きのこしている」
— 笠原十九司,一橋出版『世界史B』(平成5年検定)
上杉千年や産経新聞は東日記は詐話(作り話)であり疑わしい資料であるため、教科書での使用は不適であると説いた[30]。板倉由明は東裁判で係争中の本からの引用は問題と抗議し、出版社側は中島今朝吾師団長日記と差し替えた[6]。
カリフォルニア州公立高校での教材として
アメリカでは2015年、カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で東証言が教材として使用された[16]。教材は、1999年から全米で放映されたケーブルテレビ局ヒストリー・チャンネルの「ザ・センチュリー/アメリカズ・タイム」で、その番組のなかで東は、戦争当時中国人女性を見つけると必ず5人で集団レイプし、レイプ後は火をつけて燃やした、と発言していた[16]。
名誉毀損裁判
東の著書で中国人を郵便袋の中に入れて殺害したと証言された元歩兵第20聯隊第3中隊第1分隊長の上官が1993年4月15日、名誉棄損で東史郎、下里正樹、青木書店の三者を東京地裁に提訴した[31][6]。裁判は東裁判(あずまさいばん)とも呼ばれる[24][32]。

原告は板倉由明とも相談し、原告代理人高池勝彦弁護士事務所に「南京事件の虚構を正す会」が置かれた[6]。板倉はこの訴訟を突破口として、 歩20の残虐行為の虚偽を証明して名誉を回復し、さらに、 いわゆる『南京大虐殺』の虚構を明らかにしたいと述べた[33][6]。

判決内容
東京地裁判決
1996年4月、東京地裁1審判決は日記の記述を虚構と認定し、 東ら三者に50万円の支払いを命じた[34][6]。被告は上告。

1審判決では、南京事件については 「多数の捕虜や非戦闘員である中国人が日本兵によって殺害された」の「概ね否定しがたい事実」であると家永教科書裁判判決を踏襲したが、郵便袋事件については、不自然というべきで、客観的証拠はなく、 事実と認めるに足りない、「実行者に危険で、実行可能性がない」と判決された[6]。

原告は法廷で「自分は中国で人を殺したことがない。 強姦もしたことがない。 略奪も死体も見たことがない」と証言した[6]。

東弁護団は「東史郎さんの南京裁判を支える会」を結成し、 名誉毀損に当たらないことを立証するために、郵便袋事件が不自然でもないことを南京での手榴弾再現実験や、水中に人を袋に入れて沈む深さを計る実験などを行ったが、これらの実験結果や現地調査も判決で否定された[6][35]。

高裁(控訴審)判決
控訴審第1回公判は1996年9月26日に開始され、1998年12月22日に東京高等裁判所第7民事部(裁判長奥山興悦、裁判官・杉山正己、佐藤陽一)で控訴棄却の判決が下された[36][37]。

控訴審では、東が戦前に書いたとされる「日記」の現物が裁判所に提出されたが、南京戦に関する部分は「日記」の現物は提出されなかった[38]。東側は「日記」のその部分は、当時「懐中手帳」に書き、それを二、三年後に書き写したと主張したが、その「懐中手帳」は法廷に提出されなかった[39]。さらに、東は、ある展示会に貸出したところ返却されなかったと主張したが、その主張は展示会の責任者によって否定された[40]。

東は、日記は陣中メモ等を後の1940年から1944年3月までに「正確に記録したもの」であると反論した [41]。しかし、判決では、東日記は戦前に書かれたものかどうかも疑問で、 戦後に加筆された可能性もあり、「東の供述は全面的には採用しがたい」 と判定した [42]。また高裁は「1938年(昭和13年)3月以前についての原資料である懐中手帳などは存在しない」と判定し[43]、「控訴人東が具体的な事実を再現して供述することができなかったのは、 本件行為を目撃していなかった、すなわち、 本件行為が実行されていないからと推認せざるを得ない」と判定した[6]。裁判では、日記の多くの記述も「疑問が生じる」と指摘され、「主要な部分を裏付ける証拠はなく、真実と認めることはできない」とされた[16]。
中略
高裁判決後
原告弁護団の高池勝彦弁護士は、この判決によって東氏の書籍自体の信用性がないことが 明らかになった(略)かねがねマスコミや評論家と称する人たちが旧日本軍の非行を暴く場合、 告発者への一方的な取材だけで、それの真偽も検証せず、 その主張するままを記事にしているが本件もその一例で、 東日記が大々的に宣伝され、 多くの新聞やテレヴィでは訴訟中も原告側に対する取材は殆どなかった、として 公平な両当事者からの取材を要求した[10]。

1998年12月22日の高裁判決の報道陣は中国側から北京中央テレビ・江蘇テレビ・南京テレビ・ 香港テレビが取材した[45]。中国のメディアは、 裁判官が13分遅刻して出廷したこと、判決の言い渡しが簡単すぎたこと、原告が記者会見に登場しなかったことに驚愕し憤激を覚えた[10]。さらに、原告側記者会見の際に「南京虐殺捏造裁判勝利」という幕に対して中国報道陣から「この幕は、多くの中国人の心に深い傷をつけるので、取り外してください」「中国人に対しての侮辱だ」と抗議したが、取り外されなかった[10]。会見では南京大虐殺についての質問が相次ぎ、高池勝彦弁護士は「私の個人的見解は捏造だと思いますよ。 戦争ですから日本の兵隊が全く悪いことをしていなかったとは思いません。(略)ただし南京大虐殺はそういうものじゃないでしょ。 例えば殺人3件だったら大虐殺とは言いませんよね」と答えた[46]。 江蘇テレビ局の記者が南京大虐殺を起こしたのは日本だから、日本が証拠を出すべきだと抗議すると、高池は「あったというのなら、 そう主張する方が(証拠を)あげるべき」だと反論した[10]。

*この中国の言い方(プロパガンダ)は、モリカケ報道における朝日やNHKなどの言い方と、或いは泊原発反対活動家たちが持ち出している海陸の何万年前の断層云々の「やくざの言いがかり、伊方原発再稼働反対活動家たちの、阿蘇山が噴火して愛媛県まで火砕流が来る、の「やくざの言いがかり」に、共通なのである。

つまり、彼らは(当然のことながら…それが捏造だから)証拠をだせるわけがないのに、攻撃相手に証拠をだせという、悪魔の証明を、一様に論法として使うのである。

朝日新聞やNHKなどが、中国の工作下にあることは、私の、この章でも明瞭だろう。*
後略。


アメリカでは2015年、カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で東証言が教材として使用された

2018年09月30日 10時39分11秒 | 日記

以下は今しがたネットで発見して初めて知った事実である。
ウィキペディアから。文中強調と*~*は私。
慰安婦問題における吉田清治と同様の、元日本兵で戦後の風潮に乗じて、或いは中国等の工作を受けて南京大虐殺の捏造に加担した元兵士が、やっぱり存在していた事を私は初めて知った。

東 史郎(あずま しろう、1912年(明治45年)4月27日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の軍人(召集兵)、著述家、社会活動家。京都第16師団、福知山第20連隊上等兵として南京攻略戦に参加し、南京大虐殺(南京事件)を著書『わが南京プラトーン』で告発した。中国やアメリカ合衆国などでも謝罪活動を続けた。

日記の記述について元上官と名誉毀損裁判となり、最高裁で東日記の記述は客観的証拠がないと判定され、損害賠償が命じられた[1][2]。
中略
東は訪中するたびに英雄として各地で熱烈歓迎を受けた[19]
中略
教科書に記載された東証言
日本:一橋出版『世界史B』
1993年、笠原十九司は東史郎手記から、兵士の安眠のために農民を殺すのだった、と教科書『世界史B』(一橋出版)に引用した[29]。
『宿営にあたって・・・農民を殺して寝た。・・・襲撃してくるかもしれないから、殺すのだった。・・・』と日本の一兵士は日記に書きのこしている」
— 笠原十九司,一橋出版『世界史B』(平成5年検定)
上杉千年や産経新聞は東日記は詐話(作り話)であり疑わしい資料であるため、教科書での使用は不適であると説いた[30]。板倉由明は東裁判で係争中の本からの引用は問題と抗議し、出版社側は中島今朝吾師団長日記と差し替えた[6]。
カリフォルニア州公立高校での教材として
アメリカでは2015年、カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で東証言が教材として使用された[16]。教材は、1999年から全米で放映されたケーブルテレビ局ヒストリー・チャンネルの「ザ・センチュリー/アメリカズ・タイム」で、その番組のなかで東は、戦争当時中国人女性を見つけると必ず5人で集団レイプし、レイプ後は火をつけて燃やした、と発言していた[16]。
名誉毀損裁判
東の著書で中国人を郵便袋の中に入れて殺害したと証言された元歩兵第20聯隊第3中隊第1分隊長の上官が1993年4月15日、名誉棄損で東史郎、下里正樹、青木書店の三者を東京地裁に提訴した[31][6]。裁判は東裁判(あずまさいばん)とも呼ばれる[24][32]。

原告は板倉由明とも相談し、原告代理人高池勝彦弁護士事務所に「南京事件の虚構を正す会」が置かれた[6]。板倉はこの訴訟を突破口として、 歩20の残虐行為の虚偽を証明して名誉を回復し、さらに、 いわゆる『南京大虐殺』の虚構を明らかにしたいと述べた[33][6]。

判決内容
東京地裁判決
1996年4月、東京地裁1審判決は日記の記述を虚構と認定し、 東ら三者に50万円の支払いを命じた[34][6]。被告は上告。

1審判決では、南京事件については 「多数の捕虜や非戦闘員である中国人が日本兵によって殺害された」の「概ね否定しがたい事実」であると家永教科書裁判判決を踏襲したが、郵便袋事件については、不自然というべきで、客観的証拠はなく、 事実と認めるに足りない、「実行者に危険で、実行可能性がない」と判決された[6]。

原告は法廷で「自分は中国で人を殺したことがない。 強姦もしたことがない。 略奪も死体も見たことがない」と証言した[6]。

東弁護団は「東史郎さんの南京裁判を支える会」を結成し、 名誉毀損に当たらないことを立証するために、郵便袋事件が不自然でもないことを南京での手榴弾再現実験や、水中に人を袋に入れて沈む深さを計る実験などを行ったが、これらの実験結果や現地調査も判決で否定された[6][35]。

高裁(控訴審)判決
控訴審第1回公判は1996年9月26日に開始され、1998年12月22日に東京高等裁判所第7民事部(裁判長奥山興悦、裁判官・杉山正己、佐藤陽一)で控訴棄却の判決が下された[36][37]。

控訴審では、東が戦前に書いたとされる「日記」の現物が裁判所に提出されたが、南京戦に関する部分は「日記」の現物は提出されなかった[38]。東側は「日記」のその部分は、当時「懐中手帳」に書き、それを二、三年後に書き写したと主張したが、その「懐中手帳」は法廷に提出されなかった[39]。さらに、東は、ある展示会に貸出したところ返却されなかったと主張したが、その主張は展示会の責任者によって否定された[40]。

東は、日記は陣中メモ等を後の1940年から1944年3月までに「正確に記録したもの」であると反論した [41]。しかし、判決では、東日記は戦前に書かれたものかどうかも疑問で、 戦後に加筆された可能性もあり、「東の供述は全面的には採用しがたい」 と判定した [42]。また高裁は「1938年(昭和13年)3月以前についての原資料である懐中手帳などは存在しない」と判定し[43]、「控訴人東が具体的な事実を再現して供述することができなかったのは、 本件行為を目撃していなかった、すなわち、 本件行為が実行されていないからと推認せざるを得ない」と判定した[6]。裁判では、日記の多くの記述も「疑問が生じる」と指摘され、「主要な部分を裏付ける証拠はなく、真実と認めることはできない」とされた[16]。
中略
高裁判決後
原告弁護団の高池勝彦弁護士は、この判決によって東氏の書籍自体の信用性がないことが 明らかになった(略)かねがねマスコミや評論家と称する人たちが旧日本軍の非行を暴く場合、 告発者への一方的な取材だけで、それの真偽も検証せず、 その主張するままを記事にしているが本件もその一例で、 東日記が大々的に宣伝され、 多くの新聞やテレヴィでは訴訟中も原告側に対する取材は殆どなかった、として 公平な両当事者からの取材を要求した[10]。

1998年12月22日の高裁判決の報道陣は中国側から北京中央テレビ・江蘇テレビ・南京テレビ・ 香港テレビが取材した[45]。中国のメディアは、 裁判官が13分遅刻して出廷したこと、判決の言い渡しが簡単すぎたこと、原告が記者会見に登場しなかったことに驚愕し憤激を覚えた[10]。さらに、原告側記者会見の際に「南京虐殺捏造裁判勝利」という幕に対して中国報道陣から「この幕は、多くの中国人の心に深い傷をつけるので、取り外してください」「中国人に対しての侮辱だ」と抗議したが、取り外されなかった[10]。会見では南京大虐殺についての質問が相次ぎ、高池勝彦弁護士は「私の個人的見解は捏造だと思いますよ。 戦争ですから日本の兵隊が全く悪いことをしていなかったとは思いません。(略)ただし南京大虐殺はそういうものじゃないでしょ。 例えば殺人3件だったら大虐殺とは言いませんよね」と答えた[46]。 江蘇テレビ局の記者が南京大虐殺を起こしたのは日本だから、日本が証拠を出すべきだと抗議すると、高池は「あったというのなら、 そう主張する方が(証拠を)あげるべき」だと反論した[10]。

*この中国の言い方(プロパガンダ)は、モリカケ報道における朝日やNHKなどの言い方と、或いは泊原発反対活動家たちが持ち出している海陸の何万年前の断層云々の「やくざの言いがかり、伊方原発再稼働反対活動家たちの、阿蘇山が噴火して愛媛県まで火砕流が来る、の「やくざの言いがかり」に、共通なのである。

つまり、彼らは(当然のことながら…それが捏造だから)証拠をだせるわけがないのに、攻撃相手に証拠をだせという、悪魔の証明を、一様に論法として使うのである。

朝日新聞やNHKなどが、中国の工作下にあることは、私の、この章でも明瞭だろう。*
後略。


高池は「あったというのなら、 そう主張する方が(証拠を)あげるべき」だと反論した

2018年09月30日 10時37分52秒 | 日記

以下は今しがたネットで発見して初めて知った事実である。
ウィキペディアから。文中強調と*~*は私。
慰安婦問題における吉田清治と同様の、元日本兵で戦後の風潮に乗じて、或いは中国等の工作を受けて南京大虐殺の捏造に加担した元兵士が、やっぱり存在していた事を私は初めて知った。

東 史郎(あずま しろう、1912年(明治45年)4月27日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の軍人(召集兵)、著述家、社会活動家。京都第16師団、福知山第20連隊上等兵として南京攻略戦に参加し、南京大虐殺(南京事件)を著書『わが南京プラトーン』で告発した。中国やアメリカ合衆国などでも謝罪活動を続けた。

日記の記述について元上官と名誉毀損裁判となり、最高裁で東日記の記述は客観的証拠がないと判定され、損害賠償が命じられた[1][2]。
中略
東は訪中するたびに英雄として各地で熱烈歓迎を受けた[19]
中略
教科書に記載された東証言
日本:一橋出版『世界史B』
1993年、笠原十九司は東史郎手記から、兵士の安眠のために農民を殺すのだった、と教科書『世界史B』(一橋出版)に引用した[29]。
『宿営にあたって・・・農民を殺して寝た。・・・襲撃してくるかもしれないから、殺すのだった。・・・』と日本の一兵士は日記に書きのこしている」
— 笠原十九司,一橋出版『世界史B』(平成5年検定)
上杉千年や産経新聞は東日記は詐話(作り話)であり疑わしい資料であるため、教科書での使用は不適であると説いた[30]。板倉由明は東裁判で係争中の本からの引用は問題と抗議し、出版社側は中島今朝吾師団長日記と差し替えた[6]。
カリフォルニア州公立高校での教材として
アメリカでは2015年、カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で東証言が教材として使用された[16]。教材は、1999年から全米で放映されたケーブルテレビ局ヒストリー・チャンネルの「ザ・センチュリー/アメリカズ・タイム」で、その番組のなかで東は、戦争当時中国人女性を見つけると必ず5人で集団レイプし、レイプ後は火をつけて燃やした、と発言していた[16]。
名誉毀損裁判
東の著書で中国人を郵便袋の中に入れて殺害したと証言された元歩兵第20聯隊第3中隊第1分隊長の上官が1993年4月15日、名誉棄損で東史郎、下里正樹、青木書店の三者を東京地裁に提訴した[31][6]。裁判は東裁判(あずまさいばん)とも呼ばれる[24][32]。

原告は板倉由明とも相談し、原告代理人高池勝彦弁護士事務所に「南京事件の虚構を正す会」が置かれた[6]。板倉はこの訴訟を突破口として、 歩20の残虐行為の虚偽を証明して名誉を回復し、さらに、 いわゆる『南京大虐殺』の虚構を明らかにしたいと述べた[33][6]。

判決内容
東京地裁判決
1996年4月、東京地裁1審判決は日記の記述を虚構と認定し、 東ら三者に50万円の支払いを命じた[34][6]。被告は上告。

1審判決では、南京事件については 「多数の捕虜や非戦闘員である中国人が日本兵によって殺害された」の「概ね否定しがたい事実」であると家永教科書裁判判決を踏襲したが、郵便袋事件については、不自然というべきで、客観的証拠はなく、 事実と認めるに足りない、「実行者に危険で、実行可能性がない」と判決された[6]。

原告は法廷で「自分は中国で人を殺したことがない。 強姦もしたことがない。 略奪も死体も見たことがない」と証言した[6]。

東弁護団は「東史郎さんの南京裁判を支える会」を結成し、 名誉毀損に当たらないことを立証するために、郵便袋事件が不自然でもないことを南京での手榴弾再現実験や、水中に人を袋に入れて沈む深さを計る実験などを行ったが、これらの実験結果や現地調査も判決で否定された[6][35]。

高裁(控訴審)判決
控訴審第1回公判は1996年9月26日に開始され、1998年12月22日に東京高等裁判所第7民事部(裁判長奥山興悦、裁判官・杉山正己、佐藤陽一)で控訴棄却の判決が下された[36][37]。

控訴審では、東が戦前に書いたとされる「日記」の現物が裁判所に提出されたが、南京戦に関する部分は「日記」の現物は提出されなかった[38]。東側は「日記」のその部分は、当時「懐中手帳」に書き、それを二、三年後に書き写したと主張したが、その「懐中手帳」は法廷に提出されなかった[39]。さらに、東は、ある展示会に貸出したところ返却されなかったと主張したが、その主張は展示会の責任者によって否定された[40]。

東は、日記は陣中メモ等を後の1940年から1944年3月までに「正確に記録したもの」であると反論した [41]。しかし、判決では、東日記は戦前に書かれたものかどうかも疑問で、 戦後に加筆された可能性もあり、「東の供述は全面的には採用しがたい」 と判定した [42]。また高裁は「1938年(昭和13年)3月以前についての原資料である懐中手帳などは存在しない」と判定し[43]、「控訴人東が具体的な事実を再現して供述することができなかったのは、 本件行為を目撃していなかった、すなわち、 本件行為が実行されていないからと推認せざるを得ない」と判定した[6]。裁判では、日記の多くの記述も「疑問が生じる」と指摘され、「主要な部分を裏付ける証拠はなく、真実と認めることはできない」とされた[16]。
中略
高裁判決後
原告弁護団の高池勝彦弁護士は、この判決によって東氏の書籍自体の信用性がないことが 明らかになった(略)かねがねマスコミや評論家と称する人たちが旧日本軍の非行を暴く場合、 告発者への一方的な取材だけで、それの真偽も検証せず、 その主張するままを記事にしているが本件もその一例で、 東日記が大々的に宣伝され、 多くの新聞やテレヴィでは訴訟中も原告側に対する取材は殆どなかった、として 公平な両当事者からの取材を要求した[10]。

1998年12月22日の高裁判決の報道陣は中国側から北京中央テレビ・江蘇テレビ・南京テレビ・ 香港テレビが取材した[45]。中国のメディアは、 裁判官が13分遅刻して出廷したこと、判決の言い渡しが簡単すぎたこと、原告が記者会見に登場しなかったことに驚愕し憤激を覚えた[10]。さらに、原告側記者会見の際に「南京虐殺捏造裁判勝利」という幕に対して中国報道陣から「この幕は、多くの中国人の心に深い傷をつけるので、取り外してください」「中国人に対しての侮辱だ」と抗議したが、取り外されなかった[10]。会見では南京大虐殺についての質問が相次ぎ、高池勝彦弁護士は「私の個人的見解は捏造だと思いますよ。 戦争ですから日本の兵隊が全く悪いことをしていなかったとは思いません。(略)ただし南京大虐殺はそういうものじゃないでしょ。 例えば殺人3件だったら大虐殺とは言いませんよね」と答えた[46]。 江蘇テレビ局の記者が南京大虐殺を起こしたのは日本だから、日本が証拠を出すべきだと抗議すると、高池は「あったというのなら、 そう主張する方が(証拠を)あげるべき」だと反論した[10]。

*この中国の言い方(プロパガンダ)は、モリカケ報道における朝日やNHKなどの言い方と、或いは泊原発反対活動家たちが持ち出している海陸の何万年前の断層云々の「やくざの言いがかり、伊方原発再稼働反対活動家たちの、阿蘇山が噴火して愛媛県まで火砕流が来る、の「やくざの言いがかり」に、共通なのである。

つまり、彼らは(当然のことながら…それが捏造だから)証拠をだせるわけがないのに、攻撃相手に証拠をだせという、悪魔の証明を、一様に論法として使うのである。

朝日新聞やNHKなどが、中国の工作下にあることは、私の、この章でも明瞭だろう。*
後略。


江蘇テレビ局の記者が南京大虐殺を起こしたのは日本だから、日本が証拠を出すべきだと抗議すると、

2018年09月30日 10時36分36秒 | 日記

以下は今しがたネットで発見して初めて知った事実である。
ウィキペディアから。文中強調と*~*は私。
慰安婦問題における吉田清治と同様の、元日本兵で戦後の風潮に乗じて、或いは中国等の工作を受けて南京大虐殺の捏造に加担した元兵士が、やっぱり存在していた事を私は初めて知った。

東 史郎(あずま しろう、1912年(明治45年)4月27日 - 2006年(平成18年)1月3日)は、日本の軍人(召集兵)、著述家、社会活動家。京都第16師団、福知山第20連隊上等兵として南京攻略戦に参加し、南京大虐殺(南京事件)を著書『わが南京プラトーン』で告発した。中国やアメリカ合衆国などでも謝罪活動を続けた。

日記の記述について元上官と名誉毀損裁判となり、最高裁で東日記の記述は客観的証拠がないと判定され、損害賠償が命じられた[1][2]。
中略
東は訪中するたびに英雄として各地で熱烈歓迎を受けた[19]
中略
教科書に記載された東証言
日本:一橋出版『世界史B』
1993年、笠原十九司は東史郎手記から、兵士の安眠のために農民を殺すのだった、と教科書『世界史B』(一橋出版)に引用した[29]。
『宿営にあたって・・・農民を殺して寝た。・・・襲撃してくるかもしれないから、殺すのだった。・・・』と日本の一兵士は日記に書きのこしている」
— 笠原十九司,一橋出版『世界史B』(平成5年検定)
上杉千年や産経新聞は東日記は詐話(作り話)であり疑わしい資料であるため、教科書での使用は不適であると説いた[30]。板倉由明は東裁判で係争中の本からの引用は問題と抗議し、出版社側は中島今朝吾師団長日記と差し替えた[6]。
カリフォルニア州公立高校での教材として
アメリカでは2015年、カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で東証言が教材として使用された[16]。教材は、1999年から全米で放映されたケーブルテレビ局ヒストリー・チャンネルの「ザ・センチュリー/アメリカズ・タイム」で、その番組のなかで東は、戦争当時中国人女性を見つけると必ず5人で集団レイプし、レイプ後は火をつけて燃やした、と発言していた[16]。
名誉毀損裁判
東の著書で中国人を郵便袋の中に入れて殺害したと証言された元歩兵第20聯隊第3中隊第1分隊長の上官が1993年4月15日、名誉棄損で東史郎、下里正樹、青木書店の三者を東京地裁に提訴した[31][6]。裁判は東裁判(あずまさいばん)とも呼ばれる[24][32]。

原告は板倉由明とも相談し、原告代理人高池勝彦弁護士事務所に「南京事件の虚構を正す会」が置かれた[6]。板倉はこの訴訟を突破口として、 歩20の残虐行為の虚偽を証明して名誉を回復し、さらに、 いわゆる『南京大虐殺』の虚構を明らかにしたいと述べた[33][6]。

判決内容
東京地裁判決
1996年4月、東京地裁1審判決は日記の記述を虚構と認定し、 東ら三者に50万円の支払いを命じた[34][6]。被告は上告。

1審判決では、南京事件については 「多数の捕虜や非戦闘員である中国人が日本兵によって殺害された」の「概ね否定しがたい事実」であると家永教科書裁判判決を踏襲したが、郵便袋事件については、不自然というべきで、客観的証拠はなく、 事実と認めるに足りない、「実行者に危険で、実行可能性がない」と判決された[6]。

原告は法廷で「自分は中国で人を殺したことがない。 強姦もしたことがない。 略奪も死体も見たことがない」と証言した[6]。

東弁護団は「東史郎さんの南京裁判を支える会」を結成し、 名誉毀損に当たらないことを立証するために、郵便袋事件が不自然でもないことを南京での手榴弾再現実験や、水中に人を袋に入れて沈む深さを計る実験などを行ったが、これらの実験結果や現地調査も判決で否定された[6][35]。

高裁(控訴審)判決
控訴審第1回公判は1996年9月26日に開始され、1998年12月22日に東京高等裁判所第7民事部(裁判長奥山興悦、裁判官・杉山正己、佐藤陽一)で控訴棄却の判決が下された[36][37]。

控訴審では、東が戦前に書いたとされる「日記」の現物が裁判所に提出されたが、南京戦に関する部分は「日記」の現物は提出されなかった[38]。東側は「日記」のその部分は、当時「懐中手帳」に書き、それを二、三年後に書き写したと主張したが、その「懐中手帳」は法廷に提出されなかった[39]。さらに、東は、ある展示会に貸出したところ返却されなかったと主張したが、その主張は展示会の責任者によって否定された[40]。

東は、日記は陣中メモ等を後の1940年から1944年3月までに「正確に記録したもの」であると反論した [41]。しかし、判決では、東日記は戦前に書かれたものかどうかも疑問で、 戦後に加筆された可能性もあり、「東の供述は全面的には採用しがたい」 と判定した [42]。また高裁は「1938年(昭和13年)3月以前についての原資料である懐中手帳などは存在しない」と判定し[43]、「控訴人東が具体的な事実を再現して供述することができなかったのは、 本件行為を目撃していなかった、すなわち、 本件行為が実行されていないからと推認せざるを得ない」と判定した[6]。裁判では、日記の多くの記述も「疑問が生じる」と指摘され、「主要な部分を裏付ける証拠はなく、真実と認めることはできない」とされた[16]。
中略
高裁判決後
原告弁護団の高池勝彦弁護士は、この判決によって東氏の書籍自体の信用性がないことが 明らかになった(略)かねがねマスコミや評論家と称する人たちが旧日本軍の非行を暴く場合、 告発者への一方的な取材だけで、それの真偽も検証せず、 その主張するままを記事にしているが本件もその一例で、 東日記が大々的に宣伝され、 多くの新聞やテレヴィでは訴訟中も原告側に対する取材は殆どなかった、として 公平な両当事者からの取材を要求した[10]。

1998年12月22日の高裁判決の報道陣は中国側から北京中央テレビ・江蘇テレビ・南京テレビ・ 香港テレビが取材した[45]。中国のメディアは、 裁判官が13分遅刻して出廷したこと、判決の言い渡しが簡単すぎたこと、原告が記者会見に登場しなかったことに驚愕し憤激を覚えた[10]。さらに、原告側記者会見の際に「南京虐殺捏造裁判勝利」という幕に対して中国報道陣から「この幕は、多くの中国人の心に深い傷をつけるので、取り外してください」「中国人に対しての侮辱だ」と抗議したが、取り外されなかった[10]。会見では南京大虐殺についての質問が相次ぎ、高池勝彦弁護士は「私の個人的見解は捏造だと思いますよ。 戦争ですから日本の兵隊が全く悪いことをしていなかったとは思いません。(略)ただし南京大虐殺はそういうものじゃないでしょ。 例えば殺人3件だったら大虐殺とは言いませんよね」と答えた[46]。 江蘇テレビ局の記者が南京大虐殺を起こしたのは日本だから、日本が証拠を出すべきだと抗議すると、高池は「あったというのなら、 そう主張する方が(証拠を)あげるべき」だと反論した[10]。

*この中国の言い方(プロパガンダ)は、モリカケ報道における朝日やNHKなどの言い方と、或いは泊原発反対活動家たちが持ち出している海陸の何万年前の断層云々の「やくざの言いがかり、伊方原発再稼働反対活動家たちの、阿蘇山が噴火して愛媛県まで火砕流が来る、の「やくざの言いがかり」に、共通なのである。

つまり、彼らは(当然のことながら…それが捏造だから)証拠をだせるわけがないのに、攻撃相手に証拠をだせという、悪魔の証明を、一様に論法として使うのである。

朝日新聞やNHKなどが、中国の工作下にあることは、私の、この章でも明瞭だろう。*
後略。


私が昨日まで知らなかったのは…言うまでもない事だが…彼らが隠蔽し続けてきたからである。

2018年09月30日 10時30分02秒 | 日記

南京大虐殺の捏造に一番大きな働きをしたのが朝日新聞である事は歴然たる事実だが、先般来、ふと脳裏を過る思いがあった…慰安婦問題における吉田清治の様な…元兵士の証言などという形で本を書いたり、メディアで発言したりしていた人間がいるはずだ。

昨日、偶然或いは必然で、ネットで東史郎を発見した。

本当に長い間、朝日新聞を購読・精読しNHKを視聴し続けてきたのに、この人間の事が全く分からなかったのだから、朝日やNHKの連中の異常さも極まっているのである。

私が昨日まで知らなかったのは…言うまでもない事だが…彼らが隠蔽し続けてきたからである。

自虐史観と反日思想で紙面と番組を作り続けている(フェイクニュースを報道し続けていると言っても過言ではない)彼らの嘘が満天下に晒されることになるから、全く紙面でも画面でも報道して来なかった。

それどころか、数年前になるが、日本テレビが深夜に妙な番組を放映していた…南京大虐殺が実際にあったのだという、本当にとんでもない…怪しげな写真を挿入したりして…中国のプロパガンダに迎合している事はありありのような番組を放映したのだが…あれも、この東史郎のような人間…左翼が跳梁跋扈し、GHQが日本占領のために広めた日本軍=悪玉(ナチスと同等の悪にしたのだから、如何に戦勝国と言えども、でたらめが過ぎていたのである)論に便乗した、嘘つき人間、…中国や朝鮮半島のマネートラップ・ハネートラップににもかかっていた事も間違いがないだろう…たちが、三々五々いた。

これに朝日や彼らのTV局やNHKなどが喜々として飛びついた。

問題は日本テレビが放映したのは、つい数年前だと言う事なのである。

つまり戦後のドサクサに乗じてメディアに紛れ込んだ朝鮮総連等の末裔たちが、各メディアの報道制作・編集部門の要職に存在している事を実証している番組だった事なのだ。

日本国民は、朝日新聞の購読を止め、NHKのニュースは眉唾で視聴し、私が言及する月刊誌4誌と、高山正之と櫻井よしこさんの連載コラムを読むために週刊新潮を購読する等を実践しなければ、とても21世紀の人間として・・・、

文明のターンテーブルが回っている国である日本の国民として、米国と並んで、後170年、世界をリードして行くことは出来ない事を知らなければならない。

出来ない時=彼らに加担し続ける時は、どうなるか?

現生では法律を犯していない?…だが閻魔大王は、あなたこそが最大の悪人であるとして地獄で責め苦に遭わせる事は間違いがないのである。


大道寺と…本多勝一=朝日新聞等やNHK等と山口二郎、大江健三郎、村上春樹等々の間には大した違いがない事も明らかにしてくれる事実である

2018年09月30日 10時02分34秒 | 日記

以下は前章の続きである

見出し以外の文中強調と*~*は私。

『産経』の特ダネが他紙を抜く 

だから唐突に思えた。

この世に志位和夫のほかにまだ日本で共産革命が可能だと信じている愚か者がいることに大いに驚かされた。 

しかし驚くことはもっとあった。

運輸省の7階で爆発音を聞いてから8か月後の75年5月19日早朝、社会部からの電話で叩き起こされた。 

受話器を取ると聞き覚えのあるデスクの声が怒鳴っていた。

「まだ寝ているのはお前だけだ。さっさと上がってこい」と吠える。

ただ特ダネを抜かれたときのとげとげしさはなく、声は笑っていた。

「なぜかって。もう朝刊が届いているだろう。全部目を通してこい」 産経新聞は届いていた。

1面トップに「三菱重工爆破事件の犯人クループを警視庁が今日逮捕」を知らせる白抜きの見出しが躍っていた。 

急いで他紙をみたが、三菱の「み」の字もない。

公安ネタで抜いた、新聞記者なら分かる警視庁担当記者のすごい特ダネだった。

デスクが昂奮していた理由がそれでよく分かった。

社に上がると殺気立ちながらも特ダネの昂奮が編集局の中に沸き立って伝わってくる。

社会部長は前夜から泊まり込んでいたという。 

東アジア反日武装戦線の蛮行

こっちの顔を見ると夕刊のトップをお前が書けという。

「ホシは半ダースはいる。パクリに行く刑事に記者を張りつかせているが、向こうはまく気だ。うまく逮捕現場に行きつけるかどうか。それも踏まえて逮捕の臨場感を書いてくれ」。

その少し前、逮捕に向かうデカが警視庁を出た。

結果はみんなまかれた。

それでもカメラマンのひとりが食いついて逮捕の瞬間を撮った。

それが主犯格の大道寺将司だった。

夕刊の出稿締め切りの直前だった。

カメラマンから話を聞きながら一気に180行を書きあげ、そのまま活字になった。

のちに新聞協会賞の受賞理由に「迫真の描写」と評された一文だが、個人的にも思いのある一文だった。

驚いたのは捕まった大道寺ら「大地の牙」が明かした彼らの本当の狙いだ。 

大道寺が過激テロに走り出したのは70年安保が終わってから。

祭りの後の虚脱状態の彼に「華僑青年闘争委」が話しかけてきた。

日本はアジアで蛮行を働き、搾取し、虐殺した。日本はアジア人民の抑圧者だといった。

「侵略国家日本に抵抗した支那こそ正義」という習近平の言葉と重なる。

それを70年代に支那人が左翼過激派に吹き込んでいた。

大道寺はそれを鵜呑みにして「東アジア反日武装戦線」を立ち上げた。

「朝鮮人、台湾人を皇民化し、男は皇軍の弾除けにし、女は皇軍の性処理に使われ多くは虐殺された」(大道寺の上告趣意書)ことへの報復が狙いだった。

*辻本清美等の野党政治屋達や朝日新聞記者松井やよりと北朝鮮のスパイ達が開催した女性戦犯国際法廷を協賛した池田恵理子元NHKプロデューサー達や、米国の(これが学者と言うのだから聞いて呆れるが)アレクシス・ダデン達、日本の反日活動家達、世界に棲息している同様の連中は、皆、同様の(プロパガンダ以外に存在理由がないと言っても過言ではない)中国や朝鮮半島の工作下にある連中なのだと言っても全く過言ではない事に、日本国民と世界中の人たちが気づくべき時はとうに来ているのである。私は辻本清美を始めとする彼らと朝日新聞」やNHKなどを「東アジア反日虚偽捏造報道による政権攻撃戦線」とでも名付けたい。大道寺と…本多勝一=朝日新聞等やNHK等と山口二郎、大江健三郎、村上春樹等々の間には大した違いがない事も明らかにしてくれる事実である*

標的は二つ。

アジアを搾取した三菱など財閥と、もう一つが虹作戦、つまり昭和天皇暗殺作戦だった。 

大道寺らは塩素酸ナトリウムを基剤にした爆薬をつくり、74年8月中旬、御用邸から戻られる天皇陛下のお召列車が通過する赤羽の鉄橋に仕掛けに行った。 

真夜中、爆薬を橋脚の下まで運んだが、大道寺が怖じ気づいて出直した。

日本人の意識が実行を阻んだ 

翌日、再び橋脚にたどり着き、あとは起爆装置をセットする段になって、大道寺がまた誰かに見はられている気がするといって撤収した。 

二度にわたって天皇暗殺計画を断念した「大地の牙」グループはここで計画を変更し、二つの缶は次の標的、三菱重工に仕掛けることになった。 

大道寺は87年、死刑が確定したが、多発性骨髄腫を患い、死に勝る苦痛の中でこの5月、東京拘置所で死んだ。

やれば抵抗なくやれた天皇暗殺を二度も断念した本当の理由を彼は最後まで語ろうとしなかった。

あるいは彼の中に残っていた僅かな日本人の意識が実行を阻んだという見方も有力だった。

支那人がどう暗示をかけても日本人は最後の一線は越えないということだろうか。

大道寺も日本人だったわけだ。                                (2017年8月号)


この世に志位和夫のほかにまだ日本で共産革命が可能だと信じている愚か者がいることに大いに驚かされた。

2018年09月30日 10時00分10秒 | 日記

「高山正之が斬る 朝日新聞の魂胆を見破る法」の中から、抜粋して日本と世界に発信した以下の章がアメーバの公式ハッシュタグランキングに、二項目でランクインしていた。一項目はベスト4、もう一項目は50だった。

日本のためにも、とてもいい結果だと思う。

以下は前章の続きである

見出し以外の文中強調と*~*は私。

『産経』の特ダネが他紙を抜く 

だから唐突に思えた。

この世に志位和夫のほかにまだ日本で共産革命が可能だと信じている愚か者がいることに大いに驚かされた。 

しかし驚くことはもっとあった。

運輸省の7階で爆発音を聞いてから8か月後の75年5月19日早朝、社会部からの電話で叩き起こされた。 

受話器を取ると聞き覚えのあるデスクの声が怒鳴っていた。

「まだ寝ているのはお前だけだ。さっさと上がってこい」と吠える。

ただ特ダネを抜かれたときのとげとげしさはなく、声は笑っていた。

「なぜかって。もう朝刊が届いているだろう。全部目を通してこい」 産経新聞は届いていた。

1面トップに「三菱重工爆破事件の犯人クループを警視庁が今日逮捕」を知らせる白抜きの見出しが躍っていた。 

急いで他紙をみたが、三菱の「み」の字もない。

公安ネタで抜いた、新聞記者なら分かる警視庁担当記者のすごい特ダネだった。

デスクが昂奮していた理由がそれでよく分かった。

社に上がると殺気立ちながらも特ダネの昂奮が編集局の中に沸き立って伝わってくる。

社会部長は前夜から泊まり込んでいたという。 

東アジア反日武装戦線の蛮行

こっちの顔を見ると夕刊のトップをお前が書けという。

「ホシは半ダースはいる。パクリに行く刑事に記者を張りつかせているが、向こうはまく気だ。うまく逮捕現場に行きつけるかどうか。それも踏まえて逮捕の臨場感を書いてくれ」。

その少し前、逮捕に向かうデカが警視庁を出た。

結果はみんなまかれた。

それでもカメラマンのひとりが食いついて逮捕の瞬間を撮った。

それが主犯格の大道寺将司だった。

夕刊の出稿締め切りの直前だった。

カメラマンから話を聞きながら一気に180行を書きあげ、そのまま活字になった。

のちに新聞協会賞の受賞理由に「迫真の描写」と評された一文だが、個人的にも思いのある一文だった。

驚いたのは捕まった大道寺ら「大地の牙」が明かした彼らの本当の狙いだ。 

大道寺が過激テロに走り出したのは70年安保が終わってから。

祭りの後の虚脱状態の彼に「華僑青年闘争委」が話しかけてきた。

日本はアジアで蛮行を働き、搾取し、虐殺した。日本はアジア人民の抑圧者だといった。

「侵略国家日本に抵抗した支那こそ正義」という習近平の言葉と重なる。

それを70年代に支那人が左翼過激派に吹き込んでいた。

大道寺はそれを鵜呑みにして「東アジア反日武装戦線」を立ち上げた。

「朝鮮人、台湾人を皇民化し、男は皇軍の弾除けにし、女は皇軍の性処理に使われ多くは虐殺された」(大道寺の上告趣意書)ことへの報復が狙いだった。

*辻本清美等の野党政治屋達や朝日新聞記者松井やよりと北朝鮮のスパイ達が開催した女性戦犯国際法廷を協賛した池田恵理子元NHKプロデューサー達や、米国の(これが学者と言うのだから聞いて呆れるが)アレクシス・ダデン達、日本の反日活動家達、世界に棲息している同様の連中は、皆、同様の(プロパガンダ以外に存在理由がないと言っても過言ではない)中国や朝鮮半島の工作下にある連中なのだと言っても全く過言ではない事に、日本国民と世界中の人たちが気づくべき時はとうに来ているのである。私は辻本清美を始めとする彼らと朝日新聞」やNHKなどを「東アジア反日虚偽捏造報道による政権攻撃戦線」とでも名付けたい。大道寺と…本多勝一=朝日新聞等やNHK等と山口二郎、大江健三郎、村上春樹等々の間には大した違いがない事も明らかにしてくれる事実である*

標的は二つ。

アジアを搾取した三菱など財閥と、もう一つが虹作戦、つまり昭和天皇暗殺作戦だった。 

大道寺らは塩素酸ナトリウムを基剤にした爆薬をつくり、74年8月中旬、御用邸から戻られる天皇陛下のお召列車が通過する赤羽の鉄橋に仕掛けに行った。 

真夜中、爆薬を橋脚の下まで運んだが、大道寺が怖じ気づいて出直した。

日本人の意識が実行を阻んだ 

翌日、再び橋脚にたどり着き、あとは起爆装置をセットする段になって、大道寺がまた誰かに見はられている気がするといって撤収した。 

二度にわたって天皇暗殺計画を断念した「大地の牙」グループはここで計画を変更し、二つの缶は次の標的、三菱重工に仕掛けることになった。 

大道寺は87年、死刑が確定したが、多発性骨髄腫を患い、死に勝る苦痛の中でこの5月、東京拘置所で死んだ。

やれば抵抗なくやれた天皇暗殺を二度も断念した本当の理由を彼は最後まで語ろうとしなかった。

あるいは彼の中に残っていた僅かな日本人の意識が実行を阻んだという見方も有力だった。

支那人がどう暗示をかけても日本人は最後の一線は越えないということだろうか。

大道寺も日本人だったわけだ。                                (2017年8月号)