現代人が信じている世界 【新実在論#1】 https://youtu.be/1VDqBjXNKs8
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動画の書き起こし版 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まずはじめに形而上学〜ポストモダンの流れをおさらいしましょう。 紀元前のギリシアで、西洋的形而上学の芽吹きがありました。 当時の自然哲学者たちは自分達の周りのあらゆるものを形作る『何か』があるはずだと考え その『何か』を徹底的に探求したのです。 ガブリエルはこの瞬間に【世界】が誕生したと考えます。 そして当時の哲学者たちはこの世界を形作る絶対的な真理の存在を信じ それを解明するための学問を打ち立てました。 それが形而上学です。 しかし形而上学は我々に明確な答えをくれませんでした。 2000年近く経ち、近代。 デカルトはそれまでの哲学を一旦捨てることで 哲学の再構築を目指しました。 その流れを受け継いでヨーロッパ各国でさまざまな思想が花開きます。 そんな思想をひとまとめにして哲学の流れを決定づけたのがカントです。 カントは人間が理性で認識しうる境界線を示しました。 人間には先天的な認識方法が備わっていて、その方法でものを認識している以上 認識される前の【物自体】を把握することはできない。 人間は認識できるもののみを理性的に扱うべきであり 物自体に含まれるものは信仰によって対応するしかない。 『我々の世界は我々の認識によって構築されたものである』 このような考え方を【構築主義】と呼びます。 さらにその後20世紀になると、近代を乗り越えようとする動きが活発化します。 この一連の思想運動のことを【ポストモダン】と呼称します。 カントから始まった構築主義的な哲学は形而上学と同様 私たちに明確な答えをくれませんでした。 ガブリエルはそれをこう表現します。 『ポストモダンはそれまでの人類救済の約束が反故された後に 徹底的に初めからやり直す試みだった』 それまで哲学が追い求めてきた【大きな物語】は幻想で 私たちに理解可能なのはそれぞれの共同体における【小さな物語】なのではないか? しかし、そのようにして始まったポストモダン的な流れも 我々に何かしらの答えをくれるものではありませんでした。 カントが指摘したことを『緑色の眼鏡』という例えで表現した作家がいます。 私たちはみんな生まれつき緑色の眼鏡をかけている。 すると見るもの全てが緑に見えるわけだが、それが分かったとしても そのもの本来の色を認知することはどう足掻いてもできない。 そしてポストモダンがやったのは、私たちの眼鏡には緑色の中にも 微妙な濃淡があり、その人によって見ている世界はそれぞれ違う。 という指摘だったのです。 ガブリエルはこうした前提から、ポストモダン的な思想を 『相当に一般化された構築主義でしかない』と指摘します。 そして、新実在論はこれらの思想を乗り越える可能性があるものだと言います。 次にガブリエルが形而上学〜ポストモダンを否定する理由を見てみましょう。 先ほど『構築主義とポストモダンは広義では同じものである』と仮定しましたので 彼が否定するのは形而上学と構築主義です。 (それでポストモダンも否定されたことになります) まず形而上学について。 形而上学においては世界の根底にある絶対的な真理が対象となります。 形而上学においての世界とは『現実に成立している事柄の総体』です。 『世界そのもの』と表現しても良いかもしれません。 ここで問題になるのが『現実に成立(存在)している』という条件です。 『現実に存在している』とはどういうことなのでしょうか? 私たちが想像できる様々な空想の存在は『現実に存在して』いるのでしょうか? 私たちが見ているものは本当に『現実に存在して』いるものなのでしょうか? このように考えていくと『現実に成立している事柄の総体』の認識にとって 人間というフィルターはとても邪魔なことがわかります。 形而上学においては『現実に成立している事柄の総体』を認識するために 必然的に人間が排除されます。 しかし人間を排除した世界を果たして『現実に成立している事柄の総体』 と呼んで良いものなのでしょうか? ここに形而上学の限界があるのだとガブリエルは指摘します。 構築主義はこのような問題に『現実に成立している事柄』などはなく 『私たちに対して表れている限りでの事物』だけが存在する と異議申し立てをしたのでした。 しかしこの主張にも決定的な誤りがあります。 構築主義は「我々は事実(それ自体)を確認することができない」と主張し 認識論的には我々に表出した「物自体」以外の概念しか存在として認めません。 しかし、私たちがなんらかの方法で事実を捻じ曲げて認識しているとしても その対象となった『何か』は確かに存在しているはずです。 例えば、リンゴを見ている人がいます。 その人は対象を明らかにリンゴだと認識していますが 構築主義ではリンゴはその人の脳内で構築された表象だとみなし リンゴそれ自体の存在は認められません。 言い換えれば、そのリンゴは観測者がいてはじめて (観測者の頭の中で)リンゴとして存在するというわけです。 しかし、リンゴを表出させた『何か』は間違いなく存在しています。 その『何か』がなければ認識も何もないからです。 そしてその『何か』は観測者がいなくても存在していると考えるのが妥当でしょう。 そのように考えると、物自体が認識論的に存在として認められないのは不当であり このことから構築主義は端的に間違っていると考えることができます。 また、仮に構築主義の主張が正しいとすると 構築主義における『構築物』の中に構築主義の主張も含まれてしまいます。 これは明らかな自己矛盾です。 以上のことから、形而上学も構築主義も一定の間違いを犯している とガブリエルは考えます。 そして、彼は哲学的な主張ばかりではなく、 科学的な主張にも痛烈な批判を加えます。