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小口城周辺史跡-6-最終回

2024-12-21 07:25:52 | 取材・旅行

2024年12月15日(土)、栄中日文化センター主催、「歩いて巡る愛知の古城史跡」「大口町の小口城址と周辺史跡」(江南市・大口町)へ行ってきました。 講師は、七種英康先生です。その様子を、6回にわたって紹介しています。今日はその最終回。

今回の訪問地です。

しみず公園です。

青木川の水源の一つです。

木曽川の伏流水が、地層の関係で地表にわき出ています。

 青木川は、川の長さが18.3kmの一級河川です。川に沿って一宮市、稲沢市、江南市、扶桑町、および犬山市があり、4市1町あわせて約46km2の範囲(流域といいます)の雨水などを集めて流れる河川です。途中、一宮市丹陽町で一宮市内を流れる縁葉川と合流したのち、五条川に合流します(ここが青木川の最下流地点で、これより下流は五条川となります)。その後、五条川は新川庄内川と合流していき、最終的には名古屋港で伊勢湾に注いでいます。

一宮建設事務所のHPには、詳細な歴史が語られています。

https://www.pref.aichi.jp/soshiki/ichinomiya-kensetsu/0000064571.html

かつて、私が尾北ホームニュースに連載した記事の一つです。

ここからhttp://www.mirai.ne.jp/~homenews/younet/shagaku/YN180322S.htm

連載の一覧です。

190328 (最終回)  ◆「社楽のこ・こ・ろ」
190228 (その13)  ◆「ODAってなに・・・?」
190124 (その12)  ◆「自然と歴史の恵み。それは…」
181220 (その11)  ◆「食器に込める日本人の思い
181122 (その10)  ◆「名字の分布は文化の流れ」
181025 (その9)  ◆「難しいものをやさしく」
180927 (その8)  ◆「わが家でできる工場見学」
180823 (その7)  ◆「食品売り場は社楽の宝庫!」
180726 (その6)  「都道府県には顔がある!」
180628 (その5)  ◆「ものづくり立国愛知のルーツは?」
180524 (その4)  ◆旅行シミュレーション 
180426 (その3)  ◆年号は歴史の住所 
180322 (その2)  ◆この川はどこから?
180222 (その1)  ◆社会科から見えてくるもの

宮後城

南から見た宮後城址。

説明版です。

文字起こしします。


宮後城跡
 宮後八幡社の北約二百景の所に蜂須賀小六の住んだ蜂須賀屋敷と呼ばれる所がありました。
 天正十二年(一五八四)の小牧・長久手の戦いについて書かれた古文書には豊臣方の砦として「宮後砦」という記述のあるものがいくつかありましたが、その詳細についてはこれまでほとんど判っていませんでした。
 しかし、平成十一年(一九九九) に郷土史研究家が、 地籍図 (明治時代の地図) 上に「城跡道」という文字を発見し、それを手がかりに城跡とみられる地割を割り出しました。
 その後、航空写真の判読・現地踏査等の調査を実施した結果、河岸段丘(川の流れなどによって階段状になった地形)を利用した典型的な城館跡であることが判明したのです。
 現在のところ、城の範囲は図のようなものと推定されています。内郭と外郭に分かれていたとみられ、周りには堀と土塁をめぐらして防御を固めていたと考えられています。
 宮後城は、小牧・長久手の戦いの終結後に講和条件の一つとして破却されたという記録があり、現在地上にはその形跡がほとんど残っていませんが、戦国末期の城の造営や改修の方法を考える上で非常に貴重な資料であるといえるでしょう。
 また、宮後城跡との関連は解明されておりませんが、宮後城跡の一角から、子丑卯申酉戌の干支の文字が彫られた石が複数見つかりました。
 令和五年(二〇二三)には、宮後城跡の中心地と想定されていた土地で発掘調査が行われ、平安時代末~鎌倉時代初頭の堀と推定される溝状遺構、戦国時代の堀と推定される溝等が確認されました。


この図の外郭と現在の図を合わせてみます。(推測です。)

干支の石です。

発掘当時の写真です。

宮後八幡社の説明です。

文字起こししてみます。


宮後八幡社

 宮後八幡社は応永の頃(一三九四~一四二七)安井弥兵衛(尾張守護土岐氏家臣)が宮後城を築き、その鎮護(ちんご)の神として勧請したと伝えています。(武功夜話)
 その後、寛永元年(一六二四)徳島藩主蜂須賀阿波守(あわのかみ)家政公が再建したもので、祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)・天照大神です。
 家政は幼少のころ、父の小六とともに宮後の安井家(母の在所)に住み、元亀元年(一五七〇)父に従って初陣をしています。その後、秀吉の天下平定のために働き、四国の徳島藩の大名に取り立てられました。
 家政は隠居の後、子の至鎮(よししげ)に先き立たれ、幼くして大名になった孫の忠英(ただてる)の後見として再び国の政治にあたりました。
 老境に達した時、故郷宮後の地が忘れがたく、八幡社の本殿、釣殿(つりどの)・拝殿を再建、寄進しました。
 そのことは棟札(むなふだ)に「奉建立八幡宮御本社並釣殿拝殿大旦那宝宿(はちすか)様」と書かれていることによってもわかります。
 構造、手法などから見て家政の寄進したもので、一間社流(ながれ)造り、本殿は一間四方の建物で桧皮(ひわだ)で葺(ふ)いた屋根の面が流れるように反った造りです。
 正面向拝、蟇股(かえるまた)の菊花彫刻、懸魚(げぎょ)等桃山時代の面影を残し、尾北における八幡造りの古建築として貴重です。
 昭和三十三年三月二十九日には県の重要文化財に指定され、その後、昭和四十三年に解体修理が行われています。
 この社の周囲の石積土塁は宮城の塁壁(るいへき)(砦)で野面積(のづらづみ)に往年のいぶきを感じさせます。
 また、昭和のはじめまで境内には大きな槙(まき)、天に聳(そび)える松の大木、社殿の前には樹齢を経た桧の神木が茂っていました。


 

懸魚(げぎょ)

蟇股の菊花彫刻(ぎりぎりで全景が見えません)

蜂須賀家政が寄進した拝殿、本殿です。

石積土塁は宮城の塁壁(るいへき)(砦)でした。

かつては、このような標柱がありました。今は住宅地になっています。

蜂須賀家政生誕地の碑は今でも健在です。

12月19日に撮影したものです。

説明板です。 

文字起こししてみましょう。


蜂須賀家屋敷跡(宮後城跡)
 宮後城八幡社の境内を含め、東西六十間・南北八十間(一間は約一八m)という広大な屋敷であった。
 この屋敷は旧宮城で土岐氏が美濃・尾張を領有してい応永(一三九四~一三九八)のころ尾張を治める要地として安井氏が守っていた城であった。
 天文年間の後半、蜂須賀小六は母が安井氏の娘であったので故あって母の在所に住むことになり、木曽川の川並を支配した。 尾張国地名考に宮村は「この村に蜂須賀小六の屋敷跡あり」と記し、昭和四十三年頃までは「小六屋敷」といわれ、外堀・古井戸も残っていたが都市化の波に抗しきれずその跡もない。今は県道江南・犬山線沿いに「蜂須賀家政公生誕地」という石碑が残っているのみである。
 蜂須賀氏のほかに、戦国時代の武将浅野長政安井弥兵衛の子としてここで生れているという。
 後に叔父の浅野又右衛門の養子となり、ねね (秀吉の室)の妹ややを妻とした。(武功夜話・州志より)


動画です。

No.281_城跡巡り 宮後城址(愛知県江南市)

【日本の城】尾張国宮後城 令和5年(2023) 晩冬

《宮後城》2020 〜蜂須賀家政生誕地!宮後城を観る〜

【日本の城】尾張国宮後城 令和5年(2023) 仲冬


今回でこのシリーズは終わりです。

今回も、新しい発見をさせていただいた七種英康先生一緒に学んだ皆さんに感謝申し上げます。

小口城周辺史跡-1--2--3--4--5--6-


このブログでの他のシリーズは・・・

ベトナム・ホーチミン みてある記 -1-  タイ・バンコク 見てある記-1-  シェムリアップみてある記 -1-  香港に来ています  台湾レポート-1-  平成25年度北方四島交流訪問事業 -古釜布湾-  職場旅行(1) 京都ぶらり-1- なごや探索 出雲 函館 京都散策  さわやか中欧 見てある記 -1-   美濃 見てある記 -1-  東京散策 みちのく三陸海岸 見てある記-1- 滋賀探訪 新城FWに参加しました-1- 碧南FWへ行ってきました -1- 安城へ行ってきました1 -本證寺- 「勝鬘寺と大久保氏ゆかりの上和田城址」(岡崎市)-1- 北陸探訪 -1- 剱神社 近江FW  長久手FWへ行ってきました -1- 遠州FW -1- 小牧FW -1- 末森城周辺FW-1- 「宮宿」-1- 大野城・大草城-1- 「鳴海宿」-1- 富士周辺五名城と諏訪の旅-1-  犬山城周辺 -1- 近江FWⅡ 安祥城周辺-1- 「有松宿」-1- 堀川七橋めぐり-1- 松平郷周辺FW -1- 桑名城 -1- 「池鯉鮒宿」-1- 名古屋城-1- 「岡崎宿」-1- 東美濃FW -1- 刈谷小牧羽柴軍陣跡 -1-近江FWⅢ-1-三河山中城-1-小口城周辺史跡-1-

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