昨日、名古屋市公会堂で行われた、林修氏の講演会へ行ってきました。
会場は満員。
人気の高さがわかります。
地元、名古屋の出身で、会場のある鶴舞公園はジョギングコースだったそうです。
自分の頭の良さ、そして綾小路きみまろのように観客を落とす手法なのですが、全く嫌みはなく、爆笑の連続でした。
会場の雰囲気を探りながら話を組み立てていき、20時0分にピタリと話を終わる話術。
何とか盗みたいと思って聴いているのですが、感心するばかりです。
しかも、さすがに本質は押さえています。
その内容の一部を紹介します。
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教育は、教えるべき人が、教えるべき時期に、教えるべきことを教えていれば、それほど難しいことではない。
「教育」は、「教える・育てる」ではない。
「教える→育つ」である。
学ぶ側に批判的精神がなければ、勉強はできない。人の言うことを聞いてやるものではない。
益川教授は「信念をもって宿題をやらなかった」と言っていた。
宿題をやるなという意味ではなく、自分の頭で判断しようということである。
いわゆる「よい子」は、いわれたことはやるけど、そうでないことはできない。
本当によい子は、人のいうこと批判的に聞く。
「本当にそうかな、自分はどうかな、自分ならこうする」とする。
教育はこれで十分。
こう考えるようにして世に送り出せばよい。
知は、外部のものを自分の内部に取り入れること、すなわち「内部化」である。
これは、「構造化」であり「秩序化」である。
いわば、知の整理整頓だ。
これは、教えられるものではない。
自分でやってみて、試行錯誤しながらつかむものだ。
自分のやり方を見つけるまでに、失敗することだ。
勉強とは、無駄を重ねて、いつの間にかできるようになる。
これがわかっている人が「教えるべき人」だ。
そうでないと、「勉強しなさい」と言ってしまう。しているように見せかけることがうまくなるだけ。
「なんでわからないの」と言う。わからない理由がわかるなら、それはわかっているということ。
「何ページやったの?」勉強は量ではない。短時間に多くのページができるのは、わかっていることをなぞっているだけ。わかっていることをどれだけやっても、勉強したはいえない。
勉強するには時期がある。
親の影響力のもっとも少ない中高生の時期に「勉強しろ」と言っても遅い。
適切な時期は5歳まで。
そこまでに、適切な言語環境が整っているかどうかだ。
平面を直交する二直線で仕切ってできる四つの象限をイメージしてみよう。
第1象限 良い大学を出て活躍している
第2象限 良い学校を出ていないが活躍している
第3象限 良い学校を出ていないし活躍していない
第4象限 良い大学を出たが活躍していない
こう分類したときに、「教えてもらってばかり」で良い成績を取ってきた人は4になる。
自分の方法論で、自分で考えてやってきた人は1か2になる。
時期を逃して1にはなれなくても、2を目指せばよい。
良いところを伸ばせばよい。
成功した人を見ていると、異性の親にほめられた人が多い。
自己肯定感が育てられている。
成功の形は無限にあるから、良いところを伸ばそう。
本来、核家族で子供を育てることは難しい。
母方の祖父母ががんばることだ。
がんばるとは、良好な言語環境を整えること。
父方の祖父母ががんばりすぎると母が気にする。
それを防ぐには、父ががんばること。
がんばるとは、尊敬されること。
尊敬される父の祖父母なら、同じように尊敬される。
これからも教育のためにがんばりたい。
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ユーモアの中に、きらりと光る言葉が散りばめられた講演でした。
次の機会があれば、またぜひ聴いてみたいと思いました。
会場は満員。
人気の高さがわかります。
地元、名古屋の出身で、会場のある鶴舞公園はジョギングコースだったそうです。
自分の頭の良さ、そして綾小路きみまろのように観客を落とす手法なのですが、全く嫌みはなく、爆笑の連続でした。
会場の雰囲気を探りながら話を組み立てていき、20時0分にピタリと話を終わる話術。
何とか盗みたいと思って聴いているのですが、感心するばかりです。
しかも、さすがに本質は押さえています。
その内容の一部を紹介します。
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教育は、教えるべき人が、教えるべき時期に、教えるべきことを教えていれば、それほど難しいことではない。
「教育」は、「教える・育てる」ではない。
「教える→育つ」である。
学ぶ側に批判的精神がなければ、勉強はできない。人の言うことを聞いてやるものではない。
益川教授は「信念をもって宿題をやらなかった」と言っていた。
宿題をやるなという意味ではなく、自分の頭で判断しようということである。
いわゆる「よい子」は、いわれたことはやるけど、そうでないことはできない。
本当によい子は、人のいうこと批判的に聞く。
「本当にそうかな、自分はどうかな、自分ならこうする」とする。
教育はこれで十分。
こう考えるようにして世に送り出せばよい。
知は、外部のものを自分の内部に取り入れること、すなわち「内部化」である。
これは、「構造化」であり「秩序化」である。
いわば、知の整理整頓だ。
これは、教えられるものではない。
自分でやってみて、試行錯誤しながらつかむものだ。
自分のやり方を見つけるまでに、失敗することだ。
勉強とは、無駄を重ねて、いつの間にかできるようになる。
これがわかっている人が「教えるべき人」だ。
そうでないと、「勉強しなさい」と言ってしまう。しているように見せかけることがうまくなるだけ。
「なんでわからないの」と言う。わからない理由がわかるなら、それはわかっているということ。
「何ページやったの?」勉強は量ではない。短時間に多くのページができるのは、わかっていることをなぞっているだけ。わかっていることをどれだけやっても、勉強したはいえない。
勉強するには時期がある。
親の影響力のもっとも少ない中高生の時期に「勉強しろ」と言っても遅い。
適切な時期は5歳まで。
そこまでに、適切な言語環境が整っているかどうかだ。
平面を直交する二直線で仕切ってできる四つの象限をイメージしてみよう。
第1象限 良い大学を出て活躍している
第2象限 良い学校を出ていないが活躍している
第3象限 良い学校を出ていないし活躍していない
第4象限 良い大学を出たが活躍していない
こう分類したときに、「教えてもらってばかり」で良い成績を取ってきた人は4になる。
自分の方法論で、自分で考えてやってきた人は1か2になる。
時期を逃して1にはなれなくても、2を目指せばよい。
良いところを伸ばせばよい。
成功した人を見ていると、異性の親にほめられた人が多い。
自己肯定感が育てられている。
成功の形は無限にあるから、良いところを伸ばそう。
本来、核家族で子供を育てることは難しい。
母方の祖父母ががんばることだ。
がんばるとは、良好な言語環境を整えること。
父方の祖父母ががんばりすぎると母が気にする。
それを防ぐには、父ががんばること。
がんばるとは、尊敬されること。
尊敬される父の祖父母なら、同じように尊敬される。
これからも教育のためにがんばりたい。
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ユーモアの中に、きらりと光る言葉が散りばめられた講演でした。
次の機会があれば、またぜひ聴いてみたいと思いました。