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「日本」の呼称は西暦678年以前から?

2011-10-25 06:32:28 | 社会科こぼれ話
「日本」の呼称は西暦678年以前から?

興味深い記事が載っていました。

http://blog.livedoor.jp/nappi11/archives/3107278.htmlからの引用です。

2011年10月23日、中国の古都・西安で見つかった墓誌(墓の石板)に、「日本」の文字があるとの論文が中国で発表された。墓誌は678年の作と考えられるとしている。倭国から日本と名乗ったのはいつからなのかは大きななぞで、大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物ならさらにさかのぼることになる。

中国墓誌研究の明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。

隋から変わった唐(中国)と新羅に侵略を受けた百済は日本に助けを求め、日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日本餘●(●は口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。参照記事


7世紀初めから半ばにかけて、朝鮮半島には高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の3つの国があった。その頃、中国を統一した唐(とう)は朝鮮半島にまで支配の手を延ばそうとしていた。朝鮮半島を中心とする東アジアは一触即発の状態にあり、海を隔てた倭(わ:日本)=大和朝廷もこの緊張関係と無関係ではなかった。

660年、唐(中国)は新羅と手を結び、百済に攻め入り、同年7月、百済王は捕らえられ百済は滅び、百済の遺臣(いしん)は倭(日本)に百済の滅亡を伝えるとともに、救援軍の派遣を日本に要請してきた。

 百済への派兵は2回行なわれ、1次軍は661年に海を渡ったが、大きな戦果は得られなかった。2次軍は663年の2万7千人から成る大部隊で、兵士の動員は西日本だけでなく、東日本にも及び、国家的な戦時体制が敷かれ、百済救援軍(2次軍)は8月、錦江(きんこう)河口の白村江で、唐・新羅の連合軍と衝突します。戦闘は4度にわたり繰り返され、663年この戦いで倭の水軍は大敗北をし、これが白村江の戦いです。

その時、倭の軍は百済の亡命貴族を伴い九州に退却するが、このとき百済王一族の一部が日本に亡命し、大阪府枚方市に残る「百済王神社」はその名残り。白村江の戦いで敗退した後、大和朝廷は朝鮮半島における足がかりを失い、また、唐または新羅が倭に攻めてくるかもしれないという危ない状況に陥り、この後、唐の攻撃を防ぐため防人(さきもり)が九州に派遣された。 参照記事 加筆

当時の唐(今の中国に当たる)は至るところで諸民族を征服しており、このころの唐の勢力圏は中華史上最大のものであった。この時参加した唐の水軍の主力は、今の中国と同じ漢族で構成されていたという。


この元は、朝日新聞のようです。

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