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続 関ヶ原の戦い-なぜ徳川の時代に?-1-

2014-12-16 06:16:27 | 社会科こぼれ話
「関ヶ原の戦い-なぜ徳川の時代に?」を18回にわたって紹介してきました。

 衆議院選挙により、「軍師官兵衛」最終回が延びてしまいました。
 この間を利用して、続編を作成してみたいと思います。

(1)源氏長者

 戦国武将は、ただ戦に強いだけでは上に立つことはできません。
 人が人を治めるには、権威付けが必要なのです。

 これは、政教分離の世界ではよくあることです。

 例えば、オスマントルコの王は、被征服民であるアラブのカリフから「スルタン」の称号を得ます。
 アラブの宗教的指導者から権威づけてもらい、アラブの民を統治していたのです。
 天皇と将軍のような関係は、世界史の中でもあるのです。

 それでは戦国時代は?

 平氏である織田信長は、本能寺の変の前日に、朝廷から「将軍・関白・太政大臣のいずれかに就くように」と言われています。
 それまでは、従二位 右大臣でした。
 信長は、将軍に就任するつもりだったと言われています。

 農民出身の秀吉は、源氏の姓を手に入れようとしましたが、足利将軍家に断られてしまいます。
 そこで、まず、名門藤原氏の長、近衛前久の猶子になり、藤原氏の姓を得ました。
 その後、公家の頂点である「関白」を手に入れたのです。後には「太政大臣」になっています。

 ここで家康の登場です。

 秀吉に対抗するためには、「関白」と並ぶ地位に就く必要があります。
 ステータスがなければ、諸将が付いてこないためです。

 そこで家康はどうしたのか?

 何と言っても家柄が大切です。
 家康は、源氏の名門、新田義貞につながる家系図を作って、源氏の姓に改めました。
 ここには、郷里岡崎の隣国であり、源氏の高家、吉良氏の協力があったと言われています。

 その後、豊臣に遠慮して一度は源氏長者の宣下を辞退しつつ、慶長8年2月12日、辞退から1年余り後、内大臣から右大臣に転任し、征夷大将軍と源氏長者のそれぞれの宣下を受けたのです。
 周到な準備を重ね、武士の棟梁と氏長者の両方を得て、武家・公家両方の頂点に立ったのです。 

 摂関以外の最高の官職で、その意味でも他の武家に対する権威付けには申し分ないものでした。

 ちなみに、従一位は、太政大臣、関白、征夷大将軍が相当します。

 石田三成は、従四位下の侍従です。

 これだけ見ても、関ヶ原の戦いはすでに勝負があったのでした。  

 



 
 

 


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