12月9日は新聞休刊日なので、昨日のコラムを紹介します。
朝日新聞
・ 作家の永井荷風は浅草のようすが気になり、足を延ばした。歓楽街の人出はいつもと変わりなく、芸人や踊り子のふるまいもまた同じ。〈無事平安なり〉と日記「断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)」に書き記した。1941年12月8日の日米開戦から3日後のことである
▼やはり作家伊藤整(せい)の「太平洋戦争日記」は、開戦翌日の新宿を描いている。〈今日は人々みな喜色ありて明るい〉。世には祝祭気分すら漂ったらしい。日本軍による真珠湾奇襲の戦果に国中が「酔っている」と、戦後回想した学者もいる
▼今から思えば、その明暗に驚く。開戦の日、北海道帝大生が軍事機密を漏らしたとしてスパイの濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を着せられた。旅の見聞を知人に話しただけだった。学生は獄中で病み、27歳で死去。後に「レーン・宮沢事件」と呼ばれ、当局による秘密独占の危うさをまざまざと物語る
▼国の行く末がどうなるか、考えるよすがもないまま戦争に駆り立てられる。何の心当たりもないまま罪をでっち上げられる。戦前の日本に逆戻りすることはないか。心配が杞憂(きゆう)に終わる保証はない。おととい、特定秘密保護法が成立した
▼国家安全保障会議の設置と併せ、外交や軍事面で米国との連携を強めるための法律である。その先には武器輸出三原則の見直しや集団的自衛権の行使の解禁が控える。安倍政権の野望が成就すれば、平和国家という戦後体制(レジーム)は終わる
▼12・8の日付を忘れることはできない。今、忘れない日付のリストに12・6も加えなければならない。
毎日新聞
・ 「ロリフラフラ」がネルソン・マンデラ氏が生まれた時の名だった。何と部族語で「トラブルメーカー」を意味するという。後年の波乱の人生で、この名前がひやかしのたねになったのはいうまでもない
▲反人種隔離政策の闘士として運転手、料理人、庭男、ボーイなどに変装して神出鬼没の地下活動をしたおりには、「紅はこべ」をもじった「黒はこべ」というあだ名もついた。やがて捕らわれ、国家反逆罪で起訴された裁判で行った冒頭陳述が歴史に残る演説となる
▲「私は生涯を通じて、このアフリカ民衆の闘争に身をささげてきました。白人支配に対して闘い、黒人支配に対しても闘ってきました。すべての人が手を取り合い、対等の機会を与えられて共存していく民主的で自由な社会という理想を胸に抱き続けてきました。……この理想のために命も投げ出す覚悟です」
▲マンデラ氏の偉大さは、実に27年6カ月の獄中生活の後にその理想を地上にもたらしたことにあろう。彼は記す。「刑務所から出た時、私の使命は抑圧された人々と抑圧する人々との双方を抑圧から解き放つことだった」
▲怨恨(えんこん)ではなく寛容を、報復ではなく和解を。まさに身をもって人種間の憎悪の悪循環を断ち切ったマンデラ氏である。かつて反逆罪の法廷で唱えられた理想は、その大統領就任演説において新生南アフリカのすべての国民同士の「契約」としてうたわれることになった
▲「いかにして人はマンデラたりうるのか?」とは仏哲学者デリダの言葉という。人間の尊厳と自由、平和を求めるすべての人の心に確かな希望とそんな問いを残し、マンデラ氏は旅立った。
日本経済新聞
・「男性がもっと女性のような発想で動けば、世界は好ましい方向に変わるだろう」。この意見に賛成か反対か。米国の調査会社が先進国と新興国で一般の人たちに聞いたところ、世界平均では男性の63%、日本人男性だけだと実に79%が賛成という結果になったそうだ。
▼「女性のような」とは共感、親切、柔軟、献身的といった、これまで主に女性的と思われてきた資質を指す。結果をまとめた本「女神的リーダーシップ」によれば、仕事での成功にもこうした要素が不可欠になりつつある。変化が速い時代には、さまざまな人と柔らかくつながる能力が大事だからだと調査の担当者は語る。
▼月刊誌「日経ウーマン」が、その年に活躍した女性を表彰する「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」を発表した。忙しい中でも使いやすい化粧品を開発したり、経済学者を辞め途上国で起業したり、地方から地元の魚を都会の飲食店に届ける道を開いたり。他者の悩みに共感する力や逆境を糧にする柔軟さが、確かにまぶしい。
▼かつて働く女性がリーダーを目指すには「男になる」ことを求められた。剛気で、部下ににらみを利かし、下品な冗談にも動じず、等々。先の調査結果が的確だとすれば、これではむしろ本人も会社も損をする。弱みと思われてきた面こそが実は強みかも。女性が活躍する社会をつくるには、そんな視点も役に立ちそうだ。
産経新聞
・ 南アフリカのマンデラ元大統領が生まれた1918年、第一次大戦が終わり、翌年1月パリ講和会議が始まった。悲惨な戦いの反省から国際連盟結成も議題となる。「戦勝国」として参加した日本はこの連盟結成にからめ各国に人種差別撤廃を提案した。
▼連盟規約に「加盟国は他の加盟国国民を差別しない」という条項を求めたのである。米国で日本人の土地を取り上げる法律ができたことや、欧米で根強い「黄禍論」への反発が背景にあった。人類普遍の理念というより日本やアジア諸国の国益を守る狙いだった。
▼米国や英連邦などの国々は当然のごとく反対に回る。アジア系ばかりでなくさまざまな人種問題を抱える国としては、国内の反差別運動に火がつくのを恐れたのだ。このため日本も条項でなく宣言とすることで妥協する。表決では11対5という圧倒的な賛同を得た。
▼だが議長の米国大統領、ウッドロー・ウィルソンは「こんな重要な問題は全会一致が原則だ」と一言で葬ってしまった。まるで事後法による裁きのような強引さだ。日本の牧野伸顕全権代表の抗議も及ばない。日本人が反米意識を強める一因ともなった。
▼くしくもマンデラ氏誕生と同時期、撤廃宣言がなされていたら人種差別の歴史はどうなっていただろう。後に南アフリカの白人政権があれほど厳しいアパルトヘイト(人種隔離)政策をとりえたか疑問だ。マンデラ氏も27年もの獄中生活に苦しまなくてすんだかもしれない。
▼特に日本人にとって真剣に考えたい歴史のイフだ。とはいえマンデラ氏の真骨頂はアパルトヘイト撤廃後、白人社会と和解した包容力にあるともいえる。それならどちらにしても、南アフリカの「国父」として尊敬されていたに違いない。
中日新聞
・「ルビッチならどうする」。映画「アパートの鍵貸します」などのビリー・ワイルダー監督(一九〇六~二〇〇二)はこんなメモを壁に張ってアイデアを練っていたという。それほどまでにドイツ出身で「ニノチカ」などのエルンスト・ルビッチ監督を尊敬していた。「あのメモを絶えず見つめていた。ルビッチならばどう見せる」
▼あの人ならどう書くか。明治大正期のジャーナリスト宮武外骨(みやたけがいこつ)(一八六七~一九五五)を登場させたい
▼痛烈な権力批判の人。不敬罪などで入獄四回、罰金、発禁など二十九回。反骨の人といえば聞こえはいいが、相当な変人だったそうだ
▼外骨が編集した「滑稽新聞」の記事を引用する。一九〇四(明治三十七)年三月に掲載。日露戦争当時の軍の情報統制を皮肉っている
▼<今の○○軍○○事○○当○○局○○○者は○○○○つ○ま○ら○ぬ○○事までも秘密○○秘密○○と○言う○て○○新聞に○○○書○か○さぬ○○事に○して○いるから○○新聞屋○○は○○○聴いた○○事を○○○○載せ○○られ○○得ず○○して○○丸々○○○づくし○○の記事なども○○○多い><これは○○つまり○○○当局者の○○○(中略)度胸が○無さ○○過ぎる○○様○○だ>
▼○を飛ばして読めば意味は通じる。不気味な視覚効果。外骨なら特定秘密保護法をどう書くか。百九年前に書いていた。
※ コラムのテーマは何だってよいのですが、時の話題を扱うことも多々あります。
昨日のコラムは、秘密保護法案とマンデラ氏が2社ずつ。日経は、女性の視点の重要性を説いています。
今回の注目は産経です。
かつて授業でも取り上げたことがありますが、「日本人が反米意識を強める一因ともなった。」と書かれているように、この事件がなければ、その後の太平洋戦争へ向かう流れが変わっていたかもしれないのです。
歴史とは、あるきっかけで大きく流れが変わります。
秘密保護法案の採決が、大きな流れの中でどのような意味を持ったのか、100年後、200年後の人に聞いてみたい気がします。
朝日新聞
・ 作家の永井荷風は浅草のようすが気になり、足を延ばした。歓楽街の人出はいつもと変わりなく、芸人や踊り子のふるまいもまた同じ。〈無事平安なり〉と日記「断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)」に書き記した。1941年12月8日の日米開戦から3日後のことである
▼やはり作家伊藤整(せい)の「太平洋戦争日記」は、開戦翌日の新宿を描いている。〈今日は人々みな喜色ありて明るい〉。世には祝祭気分すら漂ったらしい。日本軍による真珠湾奇襲の戦果に国中が「酔っている」と、戦後回想した学者もいる
▼今から思えば、その明暗に驚く。開戦の日、北海道帝大生が軍事機密を漏らしたとしてスパイの濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)を着せられた。旅の見聞を知人に話しただけだった。学生は獄中で病み、27歳で死去。後に「レーン・宮沢事件」と呼ばれ、当局による秘密独占の危うさをまざまざと物語る
▼国の行く末がどうなるか、考えるよすがもないまま戦争に駆り立てられる。何の心当たりもないまま罪をでっち上げられる。戦前の日本に逆戻りすることはないか。心配が杞憂(きゆう)に終わる保証はない。おととい、特定秘密保護法が成立した
▼国家安全保障会議の設置と併せ、外交や軍事面で米国との連携を強めるための法律である。その先には武器輸出三原則の見直しや集団的自衛権の行使の解禁が控える。安倍政権の野望が成就すれば、平和国家という戦後体制(レジーム)は終わる
▼12・8の日付を忘れることはできない。今、忘れない日付のリストに12・6も加えなければならない。
毎日新聞
・ 「ロリフラフラ」がネルソン・マンデラ氏が生まれた時の名だった。何と部族語で「トラブルメーカー」を意味するという。後年の波乱の人生で、この名前がひやかしのたねになったのはいうまでもない
▲反人種隔離政策の闘士として運転手、料理人、庭男、ボーイなどに変装して神出鬼没の地下活動をしたおりには、「紅はこべ」をもじった「黒はこべ」というあだ名もついた。やがて捕らわれ、国家反逆罪で起訴された裁判で行った冒頭陳述が歴史に残る演説となる
▲「私は生涯を通じて、このアフリカ民衆の闘争に身をささげてきました。白人支配に対して闘い、黒人支配に対しても闘ってきました。すべての人が手を取り合い、対等の機会を与えられて共存していく民主的で自由な社会という理想を胸に抱き続けてきました。……この理想のために命も投げ出す覚悟です」
▲マンデラ氏の偉大さは、実に27年6カ月の獄中生活の後にその理想を地上にもたらしたことにあろう。彼は記す。「刑務所から出た時、私の使命は抑圧された人々と抑圧する人々との双方を抑圧から解き放つことだった」
▲怨恨(えんこん)ではなく寛容を、報復ではなく和解を。まさに身をもって人種間の憎悪の悪循環を断ち切ったマンデラ氏である。かつて反逆罪の法廷で唱えられた理想は、その大統領就任演説において新生南アフリカのすべての国民同士の「契約」としてうたわれることになった
▲「いかにして人はマンデラたりうるのか?」とは仏哲学者デリダの言葉という。人間の尊厳と自由、平和を求めるすべての人の心に確かな希望とそんな問いを残し、マンデラ氏は旅立った。
日本経済新聞
・「男性がもっと女性のような発想で動けば、世界は好ましい方向に変わるだろう」。この意見に賛成か反対か。米国の調査会社が先進国と新興国で一般の人たちに聞いたところ、世界平均では男性の63%、日本人男性だけだと実に79%が賛成という結果になったそうだ。
▼「女性のような」とは共感、親切、柔軟、献身的といった、これまで主に女性的と思われてきた資質を指す。結果をまとめた本「女神的リーダーシップ」によれば、仕事での成功にもこうした要素が不可欠になりつつある。変化が速い時代には、さまざまな人と柔らかくつながる能力が大事だからだと調査の担当者は語る。
▼月刊誌「日経ウーマン」が、その年に活躍した女性を表彰する「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」を発表した。忙しい中でも使いやすい化粧品を開発したり、経済学者を辞め途上国で起業したり、地方から地元の魚を都会の飲食店に届ける道を開いたり。他者の悩みに共感する力や逆境を糧にする柔軟さが、確かにまぶしい。
▼かつて働く女性がリーダーを目指すには「男になる」ことを求められた。剛気で、部下ににらみを利かし、下品な冗談にも動じず、等々。先の調査結果が的確だとすれば、これではむしろ本人も会社も損をする。弱みと思われてきた面こそが実は強みかも。女性が活躍する社会をつくるには、そんな視点も役に立ちそうだ。
産経新聞
・ 南アフリカのマンデラ元大統領が生まれた1918年、第一次大戦が終わり、翌年1月パリ講和会議が始まった。悲惨な戦いの反省から国際連盟結成も議題となる。「戦勝国」として参加した日本はこの連盟結成にからめ各国に人種差別撤廃を提案した。
▼連盟規約に「加盟国は他の加盟国国民を差別しない」という条項を求めたのである。米国で日本人の土地を取り上げる法律ができたことや、欧米で根強い「黄禍論」への反発が背景にあった。人類普遍の理念というより日本やアジア諸国の国益を守る狙いだった。
▼米国や英連邦などの国々は当然のごとく反対に回る。アジア系ばかりでなくさまざまな人種問題を抱える国としては、国内の反差別運動に火がつくのを恐れたのだ。このため日本も条項でなく宣言とすることで妥協する。表決では11対5という圧倒的な賛同を得た。
▼だが議長の米国大統領、ウッドロー・ウィルソンは「こんな重要な問題は全会一致が原則だ」と一言で葬ってしまった。まるで事後法による裁きのような強引さだ。日本の牧野伸顕全権代表の抗議も及ばない。日本人が反米意識を強める一因ともなった。
▼くしくもマンデラ氏誕生と同時期、撤廃宣言がなされていたら人種差別の歴史はどうなっていただろう。後に南アフリカの白人政権があれほど厳しいアパルトヘイト(人種隔離)政策をとりえたか疑問だ。マンデラ氏も27年もの獄中生活に苦しまなくてすんだかもしれない。
▼特に日本人にとって真剣に考えたい歴史のイフだ。とはいえマンデラ氏の真骨頂はアパルトヘイト撤廃後、白人社会と和解した包容力にあるともいえる。それならどちらにしても、南アフリカの「国父」として尊敬されていたに違いない。
中日新聞
・「ルビッチならどうする」。映画「アパートの鍵貸します」などのビリー・ワイルダー監督(一九〇六~二〇〇二)はこんなメモを壁に張ってアイデアを練っていたという。それほどまでにドイツ出身で「ニノチカ」などのエルンスト・ルビッチ監督を尊敬していた。「あのメモを絶えず見つめていた。ルビッチならばどう見せる」
▼あの人ならどう書くか。明治大正期のジャーナリスト宮武外骨(みやたけがいこつ)(一八六七~一九五五)を登場させたい
▼痛烈な権力批判の人。不敬罪などで入獄四回、罰金、発禁など二十九回。反骨の人といえば聞こえはいいが、相当な変人だったそうだ
▼外骨が編集した「滑稽新聞」の記事を引用する。一九〇四(明治三十七)年三月に掲載。日露戦争当時の軍の情報統制を皮肉っている
▼<今の○○軍○○事○○当○○局○○○者は○○○○つ○ま○ら○ぬ○○事までも秘密○○秘密○○と○言う○て○○新聞に○○○書○か○さぬ○○事に○して○いるから○○新聞屋○○は○○○聴いた○○事を○○○○載せ○○られ○○得ず○○して○○丸々○○○づくし○○の記事なども○○○多い><これは○○つまり○○○当局者の○○○(中略)度胸が○無さ○○過ぎる○○様○○だ>
▼○を飛ばして読めば意味は通じる。不気味な視覚効果。外骨なら特定秘密保護法をどう書くか。百九年前に書いていた。
※ コラムのテーマは何だってよいのですが、時の話題を扱うことも多々あります。
昨日のコラムは、秘密保護法案とマンデラ氏が2社ずつ。日経は、女性の視点の重要性を説いています。
今回の注目は産経です。
かつて授業でも取り上げたことがありますが、「日本人が反米意識を強める一因ともなった。」と書かれているように、この事件がなければ、その後の太平洋戦争へ向かう流れが変わっていたかもしれないのです。
歴史とは、あるきっかけで大きく流れが変わります。
秘密保護法案の採決が、大きな流れの中でどのような意味を持ったのか、100年後、200年後の人に聞いてみたい気がします。