なんのために歩かせてもらっているのかってことを
時々は確認しないと、最中に『あれ。。何でだっけ。。』と
我に返ってわかんなくなっちゃう事があるんです。
うちは普通の家なんで、だからってのもある。
『歩いて!!』をつねづね言って頂いているから、
勢いで歩いているようなところもあるし、歩かないと間がもたない。
毎日となると日課になるし、日課って普通業務的にもなるし。
それって布教そのものに対してが普通になってきちゃうんですよ。
普通だから普通にどんどん勇んで出来るかっていうと、そんなことはない。
だから、声を掛ける意味を思い出したり、思いを自分の中で昂揚させて
おくことをしないと、さら~~~、あれ~~~っと終ってしまうんです。
熱をもってお声を掛けないことには、伝わりにくいですし。
自分で自分を勇ませるのって大変だけど、
ダレも当てにはできないし、神様と自分だけが頼り。ですよね。
なんとか、くさらないで続けていかないと、、です。
信仰を続けるのって大変だけど、その先にある喜びを信じていきたい。
夢をもち続けたいな。
感動し続けたいな。