おさづけのお取次ぎは教会の拝殿で。
拝殿にいたら、腰が痛そうな動きの教友がいたので
近くの人に聞いたら、やはり身上をいただいてる
とのことだった。私からお声をかけさせてもらった。
神様はそのように見せてくださる。私も気にかけている
のだけど、今までだったら身上者が教会にいても
「そうなんだ、、、」で終わらせていたところ。
誰かやってくれているんでしょう、と思ったり。
また私が身上でぎこちない動きをしてても、
「おさづけさせてください」とか誰もいって
くれないと思うよ。そんな感じでなかなか
思っているほど行動に出来ないものです。
のだけど、今までだったら身上者が教会にいても
「そうなんだ、、、」で終わらせていたところ。
誰かやってくれているんでしょう、と思ったり。
また私が身上でぎこちない動きをしてても、
「おさづけさせてください」とか誰もいって
くれないと思うよ。そんな感じでなかなか
思っているほど行動に出来ないものです。
今日はその彼女に声をかけさせてもらって
何とかの思いで取り次がせていただいた。本当に
ありがたかった。午前中からの行事が一つ終わって
みなさん拝殿後ろの部屋でお茶をいただいている時間だったけど、
構わず拝殿前のほうで。
何とかの思いで取り次がせていただいた。本当に
ありがたかった。午前中からの行事が一つ終わって
みなさん拝殿後ろの部屋でお茶をいただいている時間だったけど、
構わず拝殿前のほうで。
おさづけを、と思うと相手のことを聞かなきゃいけない。
どんな身上とかいつからとか、どうしてこの身上を
いただいたのかとか心調べをする必要があるので、
ぐんと相手に近づいていく。これがいいと思ってます。
どんな身上とかいつからとか、どうしてこの身上を
いただいたのかとか心調べをする必要があるので、
ぐんと相手に近づいていく。これがいいと思ってます。
三年千日一年目の心定めが始まってから、また去年の
”道の路銀”を観てから、意識がガラッと変わってしまった。
毎日のようにお相手を示してくださるものの、お取次ぎできるか
分からないし、させて頂けるとか分からないのだけど。
私が気がつくように教えてくださっている。
にをいがけ中だけではなく、教会にいても買い物をしてても
家にいても頭から離れないかもしれない。
苦しいようだけど、なんだか嬉しいのも正直なところだ。
”道の路銀”を観てから、意識がガラッと変わってしまった。
毎日のようにお相手を示してくださるものの、お取次ぎできるか
分からないし、させて頂けるとか分からないのだけど。
私が気がつくように教えてくださっている。
にをいがけ中だけではなく、教会にいても買い物をしてても
家にいても頭から離れないかもしれない。
苦しいようだけど、なんだか嬉しいのも正直なところだ。
まだまだ追いつかないけど、慌てずに丁寧にやらせていただこう。
気のせいかな。
今日は昼間はずっと右の肩がこって重かったのに
ぐるぐると回していたのにいつの間にか気がつけば
コリがなくなって軽くなっていた。
今日は昼間はずっと右の肩がこって重かったのに
ぐるぐると回していたのにいつの間にか気がつけば
コリがなくなって軽くなっていた。