にをいがけからはじめよう

おみちに引き寄せられて25年。
落ちこぼれようぼくだけど精いっぱいのにちにち。

あと2か月がんばらなくっちゃ!!

2008年10月27日 17時21分01秒 | にをいがけ・おたすけ

週明けって、なにかと家の中の用事があって
なかなか家を出ることができなくていました。
午後から集合がかかってて、、、
結局、出たり入ったりで午前中は終る。

長男に昼ご飯を準備し、自分の分も準備して持って、教会へ。

教会全体でのにをいがけの日があるので、
準備を係り4人でさせてもらってきました。
2年と仕切って、今年いっぱいの企画なので、残すところあと3回のみ。
そのあとは、どうなるのか分りません。
精いっぱい、させて頂くしかないですが、ワク塗りが・・・まだ9枚も!!
一枚3550マスで、、、、終るかな~~~~~。


苦しんだだけ成長できたら

2008年10月26日 17時10分13秒 | にをいがけ・おたすけ

理と情の境目が分りにくくて、、、
分りにくいから、仕分けもむずかしい。

親子間では、とくにそうだと思うようになった。
どこまでが理で、どこまでが情でいいのか。。。

情かと思えば、そのなかには理がちゃんと入っていることもあるし、
理で徹しているつもりでも情になっていることもある。
あああああああ・・・

と、頭抱えたくなることもしばしば。

 


いつの間にか御守護の中にいる

2008年10月24日 22時06分52秒 | にをいがけ・おたすけ

『元に返る』近頃、耳にする言葉。
信仰の元一日を振り返ることなのかなって思ってきた。
それでもいいんでしょうけど、、間違っていないんでしょうけど、
いまいちピンと来なかった。

 

おみちの信仰や親に対して喜べ切れていない私を見かねて
『yoshiさんの修養科に行ったきっかけってなんだっけ』
と聞いてくれた人がいた。


諸々を書き出してみると、
こんなんで修養科行ったのかよーーと思わずにはいられん。

けど、この中には表には出てない深い意味がこもっているんだな。
実際は、修養科へ行ったくらいじゃ因縁の切り替えなんて出来やしない。
因縁は通って果たすものだということに、年限と共に分ってきたのだった。


15年経っても、どこまで出来ているんだか・・・・で、人と比べてしまう。
人を見て不足なんてすることない信仰なのに、ついつい。。。



 

私がずーーーーーーーーと願ってきた子供へ信仰を移すこと・・
それはまだまだ途中であって、先のことはわからない。けど、
なにがあっても、私はおみちから離れないんだろうなって思える。

離れたくなって、もうヤダーーーって思うこともこの先あると思う、絶対。
だけど、そのたび元に返って御守護を感じてみる。
自分のことをよく分ってくれている人達と言いっこをすれば
気付かせてもらえる。そして、前に進める。前を見ることが出来る。
喜べることを思い出させてくれるのさ。。

 

 

と、今日は拝殿だったのでこういう話になってしまいました。
自分で書いておきながら、修養科へいくきっかけを書いた部分を消した・・
恥ずかしかったからです。
以前も記事にしたことがあるのです。
。。テレビ見てこようっと。

ありがとうございました♪


袖振り合うのも

2008年10月23日 22時31分01秒 | にをいがけ・おたすけ

路地裏をぬうように、一軒一軒、、、

今日の自分の歩きが誰かのためになったとかどうかなんて
どうでもいいことなんだなって思う。
今、歩けていることがうれしくて、そのことに感謝できていることがうれしい。
声が出せること。
相手の顔を見ることができる。
会話を楽しめる。
2児のママさんに会った。
独身のときは声を掛けられたけど、結婚して子供が出来てからは
初めてです、、とのことで、そういうこともあるんだなーーって。

行かせてもらった土地の空気を感じる、、うれしい。
名前だけは聞いていた有名高校に遭遇した時って、「へ~こんなところに~」。

私から発信したにをいがけという電波で
昨日まで知らなかった人達とひと言の言葉でつながるよろこび。
つながっても一瞬で、すぐに切れてしまうように思うけど、
ずっと先へとつながっているに違いないのだ。
それ以前から、実はつながっていたんだけど、本人の知らないだけってこともある。


袖ふり合うのもさしょうの縁・・・そんなことわざの似合う城下町。
間違ってませんかーー、このことわざ。

 

 

 

 

 

 

・・・・・・・

 

※袖振り合うのも他生の縁。。。でした。
さなさん、ご指摘ありがとうございました。



まず時代背景を知ること

2008年10月22日 19時44分38秒 | 他のおみち話

教理勉強をしました。
今、第11章から12章へ進んだ所で、時代背景は参拝さえも
ままならないころです。すぐに官憲がとんでくる厳しい時代でした。
自分ひとりだとなかなか教理なんて、勉強しようって気持ちにならないです。
そういう時間を与えていただけて、ありがたいんでしょうね。
あとになってみたら・・・・・

参拝するだけで官憲がやってきて牢獄に入れられる時代。
もし自分がその時代の人間だったら、
はたして信仰し続けるだろうか。
いやー、参拝をしにいかないと思うし、信仰できてないと思う。
そこまで、ゆるぎない信仰心をもっていないと思うなーー自分。

 

ある意味、初代だからそう思うんだろうか。
3代4代と代を重ねていくと、生まれたときから天理教だから
それが当たり前のようになっていて、そうなっていくんでしょうし。

初代だから、揺れてしまうことがあるんでしょうかね~。
おみちの信仰をじゃまに思ってしまうこともあるんでしょうかね~。