最近、小川剛生著『兼好法師』(中公新書)を読みました。カバーの扉に、「兼好は鎌倉時代後期に京都・吉田神社の神職である卜部家に生まれた。六位蔵人・左兵衛佐となり朝廷に仕えた後、出家して『徒然草』を著す。この、現在広く知られる彼の出自や経歴は、兼好没後に捏造されたものである。」とあります。最近の歴史本にも、子供の頃に記憶した「吉田兼好」という名前は間違いだとされており、兼好法師がよく理解できないままこの齢まで生きてきたような次第です。
しかし『徒然草』は好きで、特に第八十九段の「奥山に、猫またといふものありて、人を食らふなる・・・(猫また)」という段は妙に頭から離れず記憶していました。また第四十五段の「御室のちご」は仁和寺の近く住んでいたことから身近に感じ、最近は、第三十四段の「甲香は、ほら貝のやうなるが、・・・」という段で称名寺のある金沢八景とも縁があったことを知りました。鎌倉との関係も、第百十九段の「鎌倉の海に、かつをといふ魚は、・・・」とか第百八十四段の「相模守時頼の母は、松下禅尼と申しける。・・・」など、鎌倉やそこに登場する人物に具体性があることから、ひょっとしたら鎌倉辺りにも住んでいたのかと思ったりもしました。
この『兼好法師』は、そういった疑問を一気に解き明かしてくれます。兼好法師の姿がかなり鮮明に描かれており、金沢流北条家の貞顕との関係やその貞顕が仁和寺とも深い関係にあったこと。鎌倉幕府滅亡後も歌人として名をはせ、歌道の師二条為世(勅撰和歌集選者)のもとで四天王とされ、足利将軍家の執事だった高師直ともつながっていたことなどが書かれています。
読後の感想などとは大げさですが、鎌倉幕府滅亡後に登場する足利直義や高師直などの人物は後世には悪役というイメージで伝わっていますが、どうも礼節を重んじる教養人だったようです。それでなければ、辛口評論家である兼好法師は親しく交わらなかったでしょう。大衆受けするために歌舞伎などの世界で歴史を面白く演出したのでしょうか。現代にも通じる教訓かもしれません。
写真は称名寺です。