写真は城前寺前、雄山荘のあった場所の1枚です。前を通っても何の案内もなく、この場所と太宰治との関りも誰かに聞かなければ分りません。
ここにあった雄山荘は1930年(昭和5年)に東京の印刷会社の社長加来金升が建てた別荘ですが、太平洋戦争中に太宰治の愛人・太田静子が実母とともに疎開していました。太宰治は戦争が終わった1947年の2月21日から4日ほどこの雄山荘に滞在し、この間に静子は娘である太田治子を身ごもりました。太田静子は1951年までこの雄山荘で過ごし、その建物は2009年に不審火で焼け落ちるまでこの場所にあったようです。
太宰治の『斜陽』は太田静子の日記を題材に書かれました。戦争後の没落した華族の様子が描かれ、ベストセラーになった小説です。この没落華族を表現した「斜陽族」という言葉が流行したようです。この『斜陽』、名前は聞いたことがありましたが読むのははじめてです。特にこの場所のことが書かれていないか、あるとしたら太宰はどう表現したのか、早速求め読んでみました。太宰が訪れたのは2月21日。丁度梅の咲きはじめのころです。その一節を紹介します。
二月には梅が咲き、この全体が梅の花で埋まった。そうして三月になっても、風のないおだやかな日が多かったので、満開の梅は少しも衰えず、三月の末まで美しく咲きつづけた。朝も昼も、夕方も、夜も、梅の花は、溜息が出るほど美しかった。そうしてお縁側の硝子戸をあけると、いつでも花の匂いがお部屋にすっと流れてきた。三月の終わりには、夕方になると、きっと風が出て、私が夕暮の食堂でお茶碗を並べていると、窓から梅の花びら吹き込んで来て、お茶碗の中にはいって濡れた。
いまさらながらこの感性豊かな文章には感心します。とくに「朝も昼も、夕方も、夜も、梅の花は、溜息が出るほど美しかった」この行がいいです。是非一度、梅の花で埋め尽くされる曽我の梅林を訪ねてみてください。