城前寺は浄土宗のお寺で曽我兄弟の菩提寺として知られています。兄弟の育ての親 曽我祐信の曽我城大手門がこのあたりあったことから城前寺という名前がついたといわれています。本堂裏手にある曽我祐信、満江御前、曽我兄弟の墓があるところは少し小高くなっており、曽我城の土塁が築かれていました。
吾妻鏡には、曽我兄弟の仇討後、源頼朝は兄弟の育ての親である曽我祐信に対し曽我荘の貢租を免じ、兄弟の菩提を弔うように命じました。「これひとへに彼等が勇敢の怠りなきを感じさせたことによる」と書かれています。頼朝にとって殺害された工藤祐経は寵愛する家臣であったはずですが、この扱いは特別です。実際、吾妻鏡が書かれたのは仇討事件から100年後の13世紀後半と言われ、この事件はかなり脚色されていると考えて間違いないかもしれません。
なにがそうさせたか?仇討事件があったとされるのは建久四年(1193)。その後、この出来事をキッカケとした曽我兄弟にかかわる御霊信仰が広く伝わったのではないか。その供養のために、後世に菩提寺としてこの城前寺が創建され、傘焼き祭りなどが毎年行われてきたのではないかと考えられます。また箱根の精進池の近くに曽我兄弟・満江御前の墓といわれる五輪塔が数基ありますが、忍性菩薩が建立に係ったとされる宝篋印塔の側にあり、曽我兄弟の供養とかかわりがあると推測されます。
写真は城前寺の入口に安置されている阿弥陀如来坐像。この阿弥陀様は忠臣蔵で知られる吉田忠左衛門の遺児で、城前寺14世の到誉達玄和尚が元文元年(1736)に亡父の33回忌に建てたもので、孝行阿弥陀と呼ばれています。
この城前寺。曽我兄弟の仇討と忠臣蔵の二大仇討とかかわりがあり、興味本位で仇討の事を語るのが憚れる気がしてきました。ただ仏教の世界には追善供養という言葉ありますが、何よりも兄弟の事を忘れずに思い出すことが大切なのかもしれません。さて次は法輪寺に行きます。この寺も曽我祐信ゆかりのお寺です。