人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー鎌倉大仏の企画展開催中ーー

2021-05-15 13:56:50 | 日記

鎌倉市扇谷に鎌倉歴史文化交流館があり、現在、同館で7月17日までの会期で「鎌倉大仏ーみほとけの歴史とまぼろしの大仏殿」という企画展が開催中。これは見逃せないと出かけました。展示室ひと部屋に鎌倉大仏の造立から明治時代までの歴史がコンパクトにまとめられており(ハンドブックあり)、興味ある方は是非足を運ぶことをお薦めします。そこで私が興味を持った点を紹介します。

まず大仏の鋳造技術。「鋳操(いからく)り」という大仏をパネル状に継いで鋳造する技術で造られているとのこと。体は7段、頭は正面で5段、後頭部で6段の継ぎ目がありますが、これは大仏の胎内に入れば確認できます。「鋳操り」という言葉ははじめて聞きました。原材料は青銅。科学的な調査により、銅銭を材料とした可能性を指摘されているようです。そして今回の企画展でこの大仏を造るには対宋貿易の影響が非常に大きいと思いました。北条泰時の時代の和賀江島の築港とその後の六浦の港や朝比奈切通の整備よる宋銭の大量輸入。宋は元に攻め込まれ宋銭が大量に余ったそうです。さらに栄西や蘭渓道隆、陳和卿などがもたらした宋風文化影響などですね。

もう一つは、まぼろしの大仏殿の話。発掘調査で礎石が発見されたこと、『吾妻鏡』・『東関紀行』・『太平記』などの資料で大仏殿があったことは間違いなく、その規模は南北二十間(約38m)、東西二十五間(約45m)だったのが分かっています。今回の企画展では、湘南工科大学が制作した大仏殿のCG画像を体験しました。ただ奈良の大仏や宇治平等院の阿弥陀如来像は建物の外から大仏さまのお顔を拝むことができるように正面に窓が付いていますが、私は鎌倉大仏の大仏殿も多分そうなっており、そのお姿は海上からも見えたかもしれないと妄想しています。大仏殿の建物がいつ無くなったかは不明ですが、『太平記』第十三巻に建武二年(1334)八月三日に大風が吹いて、その天災を逃れようとした北条時行(中先代の乱)軍兵500人が倒壊した大仏殿の下敷きになって死んだという文章がありました。発掘調査で瓦が出土しておらず、大仏殿は瓦葺きでなく檜皮葺きのため台風に弱かったのかもしれません。私は立派な大仏殿がなくても、真っ青な空の下でみる露座の大仏が好きですね。

 

 

 

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