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新年を迎え、気持ちを新たに福を授かるため「七福神」ゆかりの寺社を巡る「七福神詣」は江戸時代に盛んになり、今も多くの方がご朱印帳を手に参詣しています。鎌倉では昭和57年に「鎌倉江の島七福神巡拝」がはじまりました。江の島では江島神社の江島弁財天を参詣します。
本日ご案内するのは、鶴岡八幡宮・旗上弁財天社。
この旗上弁財天社は源氏池の中の島にありますが、いつの時代からなのかは諸説ありはっきりしません。ただ源氏池は『吾妻鏡』に治承六年(1182)4月24日に専光坊良暹、大庭景義らを奉行として池を造ったとの記載があります。その数日前の4月5日には「高雄の文覚上人、頼朝の御願を祈らんがために、大辨才天を江の島に勧請した」と書かれていますので、おそらくその後、池に中の島を造ったときに江の島の辨才天を勧請したのではないかと推測されます。少なくとも江戸時代の『新編鎌倉志』や鶴岡八幡宮境内絵図(享保17年1732)には弁天社が載っていますので、江戸時代以前にあったのは間違いないでしょう。
この弁才天は、天部(仏教の守護神)一つで、インドの水の神であるサラスヴァーティーが、仏教にとりこまれたものだそうです。梅原猛は『仏像・羅漢』のなかで 「天部のほとけの特徴は、その自由さ気楽さのみにあるのではない。それは同時に現世利益の能力の卓越さにもある」と書いています。それに江の島の弁天様と、鎌倉鶴岡の弁天様が裸であることにふれています。 「私は突如として鎌倉に出現したこの裸形の弁天こそ、鎌倉武士のもった理想的女性像ではなかったかと思うのである。(運慶・快慶による仏像に表現される)力にみちた武人と、豊かな肉付きをもった女性に対する信仰が彼らの信仰であり、禅は教養的看板にすぎなかったとみるのが、現実の姿であったように思われる。」 その理想像とは 「多産で健康で、官能的で、どのような荒武者すら満足させる肉身と、同時にすべての家政をテキパキととりはからってゆく知性をもっている女性なのである。」 そのモデルは、北条政子や時頼の母である松下禅尼、時宗の妻である覚山尼であったかもしれません。
難しい話は別にして、まずは現世の御利益を得るために参拝してみませんか。
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