鎌倉市の東、金沢街道沿いにある浄妙寺は足利尊氏の父貞氏が中興開基といわれる足利氏ゆかりお寺です。東側には鎌倉公方屋敷が広がり、その先は六浦に至る朝比奈切通があります。その浄妙寺の本堂横を抜けた奥のやぐらのなかに足利直義のお墓があります。足利直義は正平七年(1352)2月26日に甥にして養子である足利基氏の元服を見届けた翌日に亡くなりました。享年46歳でした。
さて中公新書の『観応の擾乱』(亀田俊和著)という新書が話題となり、早速読んでみました。観応という年号は北朝方が使った年号で南朝方の年号は正平です。戦前までは正平という年号しか使用できませんでしたので、「観応の擾乱」の語句も戦後になって使われはじめたようです。それに擾乱という語句も聞きなれないものです。乱ですむものを敢て擾乱にしている。漢和辞典を引くと「擾」は「手が跳ねて動くの意から、秩序が乱れる意となった」とあります。「わずらわしい」という意味もありますので、征夷大将軍・足利尊氏と、幕政を主導していた弟の直義との対立から起きた全国規模の内乱を擾乱にしたのは、この内乱をわずらわしいと感じたからかもしれません。何しろこの直義は戦前までは天皇の皇子を殺した悪役でした。
この直義の死の原因について足利尊氏による毒殺説が有力ですが、『観応の擾乱』の著者である亀田氏は病死(一説では肝臓癌?)であったとしています。鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の親政がはじまってから20年近く、尊氏・直義兄弟は戦乱の世を休む暇なく、ともに走り続けてきたのですが、決定的に仲たがいすることはなく、心の底ではお互いに信頼していたと思われます。私は前々から足利直義という人物に同情的であり、護良親王を酷い殺し方をしたとか、毒殺されたとかする歴史の記述には懐疑的です。
さて写真は梅の花が咲きはじめた浄妙寺境内の様子。室町幕府の基礎を造り上げた足利兄弟に想いを馳せ、お寺をあとにしました。
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